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【自己分析】自分が見たくない感情、疎外感に向き合う。

自分だけ取り残された感って寂しいよね。

例えば、何か飲み会やパーティがあるとする。

自分は全く参加する気はない。
誘われても断るつもりだ。

でもいざ誘われないとなると辛い。
あも気持ちはなんなのだろう。

向こうもどうせ断られるから、と気を遣って誘わない可能性もあるのだろうが、それにしても誘われないとそれはそれで疎外感を感じる。嫌われているんじゃないか、と思うわけだ。むしろ嫌われているのがわかっている方がいいものだ。一番気になるのが、なぜ誘われていないのか、が目に見えていないということ。

思えば、高校時代の部活動、自分以外で集まっていたことがあった。自分は忙しいと思われていたかわからないが、それが悲しくて、だれも自分に声をかけてくれなかったことが悲しくて腹ただしくて、そんな程度の低い集団に属していたのかと残念で、また自分の影響力のなさを突きつけられて、そして何かある種悪意のようなものも感じて、集団が信じられなくなった。

一人の声で左にも右にも動いてしまう集団。彼らは何も考えていない。ただ流れに身を任せているだけ。悪気もない人がほとんどだ。でもその集団としての動きは、そこからはみ出したものを意図的にもそうでなくても傷つける。脅威となる。

集団の中は実際は、じっくりと覗いてみると、バラバラだったりするのだが、外から見ると集団がまるで一つの塊のように見える。そしてその中の一人の声が、その集団全体の声であるかのように聞こえる。

これが集団の強いところだ。そして恐ろしいところでもある。

この集団の実態を知っておかないと、一生集団に利用される。

集団は利用するものだ。

集団の正体は、一人か二人の発言力のある頭が働くカリスマ。影響力のあるものの所有物だ。彼らさえ抑えておけばなにも怖くない。一人一人の声に耳を傾ける必要など全くない。

だから集団には近づいた方がいい。遠くから見ていたら気付けない。その脆弱性、その綻び。

さて、話は戻るが、大人になった今集団はそこまで怖いものではなくなった。個が増えてきたからだ。

むしろ個でいることが強さの証でもある。

誘われないことに慣れてきた。そもそも誘われるということ自体、同類と見られている可能性がある。同じ世界の住人だと。

別に見下しているわけでもないし、見下されているわけでもないが、私は違う視点で物事を見ている。だから同種ではない。話が合うとは思えない。価値観が異なる。

そして集団での会話に価値をあまり感じることができない。

だから誘いがないことに寂しさを感じるのはやめた。
断るのに誘って欲しい、なんてとんだ甘えた神経してる。

自分のことを軽んじている証拠だ。自分を大事にしていれば、誘われないことにこそ、価値を見出すことができる。

もう過去の自分とはおさらばだ。

みんな自分以外で楽しんでくれ。
自分は一人で優雅に過ごすから。

二人で話したい時は自分から誘うから待っててね。


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