言葉を紡ぐこと、シェアすること
なぜ、このnoteでともっちさんや脳性麻痺のことを綴っているかは、下記のnoteをお読みいだたけたら嬉しいです。
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「あなたにとって尊厳ある生とはなんですか?」というテーマでお話をする機会をいただいて、それまでに何度も壁打ちに付き合っていただいて、迎えた当日。
精神的にはかーなーり不安定だったので逃げ出したい気持ち9割。
でも、機会をくださった方、壁打ちに付き合ってくださった方々のことを思ったら、さすがにそれはできなかった。
結論、やってよかった。
「尊厳ある生って、死ぬ間際まで自分をどう扱ってもらえるかのことだと思っていたんです。でも、お話を聴いていたら、与えられるもの、受け身ではなく、自分が自分のままで、自分の魂のままに生きていく実感のことではないか、と」
とは、シェアタイムでいただいた言葉。
お話を聴いてくださる方になにか少しでも届いたらいいと必死になって紡いだ言葉が、私が思っていた以上に静かな波紋みたいに広がって、むしろ私のほうがたくさんのギフトをいただいてしまう。
お話をいただいたとき、「みとさんのぶっ飛んだところをそのままお話していただいたらいいんです」と言われて、「えぇ、ぶっ飛んだところってなんだろう?」と意味がわからなかったけれど、お話をするために自分の半生を振り返っていたら、あぁ、確かにぶっ飛んでいるのかもしれないとようやく気が付いて、そうしたらシェアタイムでも「ジェットコースターみたいな人生ですね。生き急いでいるような」と言われて、他者からはそう見えるのか!と、いまさらながらにびっくりする。
自分のことって本当によくわかっていないらしい。
わかるのは、その時々のワクワクと面白そうと好奇心だけに忠実に生きてきた、ってことくらい。
そして、年齢をどれだけ重ねようが、基本的にはそのスタンスはちっとも変わっていなくて、なになに?!不思議発見!とか、うわぁ、なんだか興味深いもの/ひと見つけた!→もっと知りたい!→誰かに問いかけたい or 伝えたい!って、多分これしかやっていない。
ともっちさんの出版のお話も最後にちょこっとさせていただいたら、
「お手伝いしますよ。みんなでやりましょう」
と、おっしゃってくださって、これまたびっくりしてしまう。
一匹狼が板につき過ぎて、つい一人でやってしまおうという発想にしかならないから、え?いいの?とびっくりしてしまう。
そろそろ諸々の思い込みを手放すときなのかもしれない。
壁打ちしていただいた時間、当日までの時間、お話した後のシェアタイムまでも含めて、葛藤も多かったけれど、本当に豊かな時間でした。
関わってくださったすべての方に多謝。