実写化すると恋愛ドラマになる理由~クリエイターの作品を実写化するには?
宮崎駿に冨樫義博。天才クリエイターの条件
世の中には、誰しもが認める天才と呼ばれるクリエイターがいます。マンガ家でいえば「SLAM DUNK」の作者の井上雄彦氏や「HUNTER×HUNTER」の 冨樫義博氏、アニメでいえばスタジオジブリの宮崎駿氏や「エヴァンゲリオン」庵野秀明氏などが思い浮かぶでしょう。
誰しもが天才と認めるクリエイターには、共通項があります。その共通項を説明する前に、まず"ヒットコンテンツの型”をふまえる必要があります。
ヒットコンテンツの型とは?
今の時代は、プラットフォームごとに「ヒットするコンテンツの型」がある程度決まっています。
Netflixであれば主人公が復讐をする型のドラマや、デスゲーム型のドラマが人気です。
ライトノベルやアニメにおいても長らく異世界転生モノの型が人気となっていて「無職転生」など多数の異世界転生モノが配信されています。
このように、プラットフォームごとにヒットするコンテンツの型はある程度決まっています。これは、オンデマンドでの視聴が普及し、人々の好みのコンテンツの型のデータが取得できるようになった結果、そのデータに基づきプラットフォーマー側もレコメンドをするようになったという経緯があります。
ヒットコンテンツの型に従えば、公開前からある程度のヒットが約束されるため、プロデューサー等の制作陣は、この手法を意識するようになります。
AKB48の生みの親でもある秋元康氏は、映画を立て続けに5~6本制作したものの全てヒットせず、次は絶対に当てないといけないと思ったそうです。
そのとき、バットを短く持って塁に出ることを優先して、ホラー映画「着信アリ」を制作したといいます。
大ヒットを飛ばさなくとも、確実に当てる必要があったので"ホラー映画”という一定の集客が見込める型に従ったわけです。
このように、プラットフォーマー側に立っているプロデューサー等の制作陣は、ビジネスをしている以上、作品を当てないといけない責務を追っています。
その場合、大ヒットは望めないかもしれないけれど、スマッシュヒットは望めるであるコンテンツに型に従うのが最適解になるのです。
天才クリエイターには型がない
さて、ヒットコンテンツの型をふまえた上で、天才クリエイターに共通した条件とは何でしょうか。それは、天才クリエイターは型を持たないということです。
天才クリエイターが生み出すコンテンツには、ジャンルやジャンルに紐づくセオリーなどの型が存在しないのです。
ジャンルという型が存在しない
例えば 冨樫義博氏の「HUNTER×HUNTER」は、一応はバトルものの少年漫画というジャンルに属するのかもしれません。しかし、バトルあり、頭脳戦あり、ミステリーありで明確なジャンルが存在しません。
最も人気のエピソード「キメラアント編」では、蟻の王と主人公たちが人類の存続をかけて戦いますが、終盤に向かうにつれて人間や生命の本質とは?という重厚なテーマが描かれていき、ドストエフスキーさながらの文豪の小説のような展開になっていきます。
時としてクリエイター本人をも凌駕する
天才クリエイターが生み出す作品は、時にクリエイター本人をも超えるといいます。作家の夏目漱石氏は「登場人物が勝手に動いて、自分の意図しない方向に進んでしまうことがある」と話していたそうです。
同じく作家の村上春樹氏も、長編小説を執筆するときにプロットを用意することはありません。はじまりを書き出しながら、そのまま筆を進めていき、完成させます。この執筆の過程を「地下の世界に降りる」と表現しています。
このように、天才といわれるクリエイターの作品には、型やセオリーが存在せず、登場するキャラクターたちも、作者の意図を超えて時に不条理な行動をとります。それゆえに、なぜその作品が素晴らしいのか、心を打つのかを因数分解することが難しいのです。
(天才クリエイターの中には宮崎駿氏のように、一見子供向けのアニメに見せかけて、その奥には別のテーマがある、という多重構造をもっているものもあります。)
天才クリエイターのコンテンツには、再現性がない
天才クリエイターのコンテンツは、なぜ人々に支持をされるのか、という理由を因数分解することができません。すなわち、模倣が極めて難しいということになります。
逆にいうと、ヒットコンテンツの型に従ったコンテンツは模倣が容易なので、一度ヒットコンテンツの型が発明されると、その型に従ったコンテンツが量産されることになります。
ゲームの例になりますが、最近「8番出口」というゲームが大流行しました。これは、地下通路歩いて出口を目指すのですが、通路に異変があれば道を戻り、なければ進むことで次のステージに進める、という仕組みになっています。
このゲームの構造は
同じ背景の通路
そこに一定確率で異変を起こす
という風に構造の分解が可能なため、類似ゲームが大量に作られてリリースされています。
ということで、天才クリエイターのコンテンツは模倣が難しく再現性がないため、唯一無二の作品になり得るのですが、実写化にあたってはこの"再現性がない”という点がとてもネックになってくるのです。
ホームランを狙うより確実に当てたい
さきほど、プロデューサーなどの制作陣は、常にヒットコンテンツを出し続けなければならないという話をしました。
秋元氏の言葉を借りるなら、バットを短く持って塁に出ることが重要です。そのためには、確実性の高いヒットコンテンツの型に従った方が、安パイなのです。
一方、天才クリエイターの作品の素晴らしさは、因数分解できないので言語化が難しい。つまり、実写化にあたって制作陣を説得させる材料は「あの有名クリエイターが生み出した作品を実写化する」に頼ることになります。
しかも、天才クリエイターの作品は再現性がない唯一無二の存在であることから、制作陣の視点に経つと大コケするかもしれない博打になり得るわけで、少しでもヒットコンテンツの型を取り入れようとします。ここに実写化の難しさがあるのです。
なぜ実写化すると恋愛映画になるのか
例えば庵野秀明氏が監督・脚本を手掛けた「シン・ゴジラ」は、最終興収80億円超えの大ヒットを記録しました。映画を観た人なら分かると思いますが、一応怪獣映画というジャンルであるものの、やはり型にハマらない庵野秀明映画という印象を抱いたと思います。
やたら早口で話す官僚や閣僚たち、伝言ゲームのように総理に伝わる指令、科学的知見に裏打ちされたヤシオリ作戦など、ゴジラ襲来という危機が徹底してリアルに描かれています。
この「シン・ゴジラ」制作にいたっては庵野秀明氏が東宝と揉めた話は有名です。制作側が作品に恋愛要素を入れようとして庵野氏が降りると申し出たエピソードがあります。
庵野氏は徹底的に登場キャラクターのバックボーンを排除し、人間ドラマを取り除くことで「ゴジラという脅威に立ち向かう人類」にフォーカスしました。
その結果、最終興収80億円超えの大ヒットを記録しましたが、こういった映画で登場キャラクターの人間ドラマを絡ませないというのは、セオリーからは外れています。
東宝の製作者へのインタビューでも、次のように語っています。
だいたいの原作ファンは、実写化したら原作にはない恋愛要素がプラスされていた、という経験があるのではないでしょうか。
制作陣からすると、人間ドラマであったり恋愛要素といった"ヒットコンテンツの型”に従うセオリーを入れておくことで、ヒットの打率を挙げたいという思惑があるわけです。
しかし、クリエイター側からすると、自身が本当に作りたい最終形態には不必要なピースになります。しかも、本当に作りたい最終形態はヒットコンテンツの型から外れているため、制作陣を納得させるのは難しい。
「シン・ゴジラ」も完成された作品を観たらとても面白いのですが、長くて込み入ったセリフが書かれた脚本を観ただけでは、最終的な仕上がりを想像するのは難しそうです。
ということで、天才クリエイターが作る"クリエイター自身さえ凌駕する型破りなコンテンツ”は、制作陣の"とにかく打率を上げてコンスタントにヒットを出したい”という思惑と相反することがあるのです。
そして、最終的な作品を観てみなければクリエイターの世界観を理解しづらいため、クリエイターのやりたいことを信じられるかどうかという、信頼関係に関係に着地するのです。
天才クリエイターの作品は、どう実写化すれば良いのか
それでは、クリエイターが思うように実写化が叶うパターンにはどのようなものがあるでしょうか。それは3つのパターンに分かれます。
クリエイターが監督・脚本を担当する
1つは、クリエイターが監督・脚本を兼ねて作品を統括することです。これはさきほどの「シン・ゴジラ」のモデルもそうですし、アニメ作品ではありますが興行収益157億円を記録した「THE FIRST SLAM DUNK」も原作者の井上雄彦氏が監督・脚本を兼ねています。
このパターンでは、制作陣がクリエイターの創る世界観を信じられるかという点と、クリエイター本人が高い負荷を引き受けなければならないという点をクリアしなければなりません。
「シン・ゴジラ」は当初は庵野氏は脚本のみで関わる予定でした。しかし、現場を観た庵野監督は「このままでは凡庸な作品になってしまう」と、現場でカメラを回し始め、監督が2人いるような状態で現場は大混乱になったといいます。
結果的に、庵野氏は脚本と監督を兼ねることになりましたが、その影響で庵野氏の「シン・エヴァンゲリオン」の公開は遅れることとなりました。
クリエイターが実写化において脚本・監督を兼ねる場合は多大な負荷がかかります。現在連載を抱えているマンガ家がこれを行うのは、とても難しいでしょう。
信頼できるスタッフに作品を委ねる
2つめのパターンは、クリエイターが信頼できるスタッフに作品を委ねるというものです。例えば、人気漫画の実写化に提供のある脚本家の野木亜紀子氏の脚本は、原作ファンからも定評があります。野木氏は、かつてインタビューで"ファン目線な感じがする”と言われて、次のように話しています。
原作の世界観を理解できる脚本家や監督などに恵まれれば、クリエイターの世界観を受け継いだ実写化が可能なのです。
ただ、原作者は依頼をする脚本家や監督を100%指名できるわけではないので、信頼のおけるスタッフに作品を委ねられるかはある種ガチャのような状況になります。
そこで、第3のパターンではクリエイターがスタジオ制を取るという選択肢になります。
スタジオ制を取る
クリエイター本人が信頼のおけるスタッフを集めて統括することで、完全にクリエイターの世界観を表現することができます。
宮崎駿氏の「スタジオジブリ」や、ジョン・ラセター率いる「ピクサー」がこれにあたります。
スタジオ制を取ることで大規模な作品をコンスタントに発表することができますが、維持費がかかるので"宮崎駿”レベルのネームバリューがなければ難しい方法ですし、ジブリについても「魔女の宅急便」が大ヒットを記録するまでは、社員制度を取っていなかったのです。
天才クリエイターの作品を実写化する難しさ
ということで、天才クリエイターの作品は型にはまらない点が魅力であり、それゆえに再現性が難しいので、コンスタントにヒットを飛ばさないといけないという実写コンテンツと、時に相性が悪いのです。
これまでも、クリエイター本人が監督・脚本を務めたり、原作ファンであるスタッフがその世界観を実写化するなどの手法で、素晴らしい実写作品は世に送り出されてきました。
しかし、その場合も制作陣がクリエイターに信頼を寄せているか、関わるスタッフが原作をリスペクトしているかなど、色々な要素がかみ合わなければなりません。
最終的には、クリエイターの作品を信じて、どこまでリスペクトできるかが鍵になるのではないでしょうか。