【読書】『天秀尼の生涯』〜豊臣家の最後は鎌倉で終わった〜
北鎌倉の円覚寺と、JRの線路を挟んだ向かい側に、東慶寺というお寺があります。
女性の縁切寺として有名なお寺です。
鎌倉といえば、北条家に縁のある寺院が多いのですが、実はこの東慶寺は関東には珍しく、豊臣家との関係が深いお寺なのです。
歴史のロマンのある話として、源義経は実は死んでいなくて、大陸に渡ってチンギス・ハンになったという説があります。
似たような話で、織田信長は本能寺の変で実は死んでいないとか、豊臣秀頼は大坂夏の陣で、大坂城落城の前に城を抜け出して生き延びたという話も、フィクションの物語にするには面白い話です。
豊臣家は大坂夏の陣で滅んだというのが、一般的な話となっていますが、実は豊臣秀頼には子供がいて、その後も生き延びているのです。
これは作り話ではなく事実で、男児と女児の二人の子供がいました。
どちらも、正室の千姫の子供ではなく、側室に生ませた子供です。
男児は国松という名前で、大坂夏の陣の後、処刑されています。
この国松が更に生き延びて、その末裔が現在でも大阪で暮らしているという物語が、『プリンセストヨトミ』という映画になりました。
もう一人の女児の方はその後、「天秀尼」として、この東慶寺で生涯を過ごしました。
天秀尼が亡くなったのは1645年で、37歳の若さでした。
豊臣家の血筋が途絶えたのは、実際にはこの時ということになります。
鎌倉は、大河ドラマの影響もあり、休日となるとメイン通りや観光スポットは沢山の人で賑わいます。
東慶寺の前の通りも、たくさんの観光客が行き来します。
しかし、お寺の門を過ぎて参道を歩いていき、階段を上がって山門をくぐると、別世界のような静けさになります。
江戸時代にタイプスリップしたような感覚になり、天秀尼の人生や、思いが蘇ってきます。
戦国時代という歴史の史実を、一つの物語だとすると、豊臣秀吉や徳川家康が主人公で、天秀尼の人生はスピンオフドラマの様なものです。
豊臣秀頼が、本当に豊臣秀吉の子供なのかという疑問符が付くような話もありますが、実母は間違いなく淀殿(茶々)です。
淀殿の母親は織田信長の実姉であるので、天秀尼には織田家の血が流れている訳です。
そして、3代将軍家光の実母は、淀殿の実妹なので、天秀尼とは従兄弟であり、織田家の血が流れているのです。
そのように考えていくと、歴史を学ぶということはとても楽しくもあり、複雑な気持ちにもなります。
実際に史跡など、縁のある場所を訪ねてみると、新たな発見があったりします。
今だから、歴史を学んで楽しいとかいえますが、壮絶な人生を歩んだ、歴史上の人物がいたからこそ現在があるのです。
そういった人たちの生涯に思いを馳せながら、天秀尼のお墓に手を合わせました。
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