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『虎の血-阪神タイガース、謎の老人監督』(村瀬秀信著)第5章「消えた老人を追って」を読み終える。|謎の老人監督は、偉大な野球人だった。
村瀬秀信(著)『虎の血-阪神タイガース、謎の老人監督』という本の、第5章「消えた老人を追って」を、読み終えました。
1955年の開幕試合から、わずか33試合のみ大阪タイガース(現阪神タイガース)の指揮をとった謎の老人監督、岸一郎氏は、プロ野球経験こそなかったものの、野球人としては素晴らしい活躍をしていたのでした。
岸一郎氏の野球人生は、1909年に早稲田中学の野球部に入部したところから始まります。
右投げからサウスポーに転向し、抜群のストレートを武器に、ピッチャーとして頭角を表します。
そして1914年に、19歳で学生野球の名門である、早稲田大学に進学します。
1917年には「第3回極東選手権競技大会(通称・極東オリンピック)で、早稲田大学はエース岸一郎の活躍で代表に決定し、強豪フィリピンを下し優勝に導いています。
早稲田大学を卒業後は、アメリカのカリフォルニア大学に留学をする予定でした。
しかし、欧州では第一次世界大戦が続いており、ドイツに宣戦布告したアメリカは、日本の中国進出を警戒していたということもあり、政情が不安定なことから渡米を断念します。
このとき、岸一郎氏がアメリカに渡っていたら、現在の大谷翔平選手のような活躍が見られたのかもしれません。
あの、ベーブ・ルースとの対決も実現できたのかもしれないのです。
戦争は、一人の偉大なる日本の野球人の人生を変えてしまったのです。
渡米が叶わなかった岸一郎氏は、南満州鉄道に入社し、その野球部である満州倶楽部に入部します。
満州倶楽部は、岸一郎氏の活躍で、黄金時代を作り上げます。
その後、脚気を患ってしまったこともあって、1923年に29歳で現役を引退します。
岸一郎氏にとって残念なことは、この時代には都市対抗野球もプロ野球も、まだ始まっていなかったことです。
つまり、プロ野球を経験しようにも、存在すらしていなかったのです。
そして30年後、60歳となった岸一郎氏は、突如として大阪タイガースの監督に就任するのでした。
結果はどうであれ、野球界に復帰することができたのです。
第5章「消えた老人を追って」を読み終えて、日本の野球の歴史を知ることができました。
世界情勢が、野球という競技の歴史にも影響を与えたのです。
そして、岸一郎氏は、そういった影響を受けた1人であり、単なる老人監督ではなく、偉大な野球人だったのです。