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《短編小説》ブルーアワーに手を振って

Illustration by ノーコピーライトガール


 2月12日、午前5時58分。木造の駅舎はきのうの雨で湿り、雨漏りを受けたバケツが置きっぱなしにされている。単線のホームでは雑草がのびのびと繁殖していて、コンクリートの部分が年々減っているような気がする。
 駅舎にもホームにも、私以外誰もいない。遺跡に取り残されたみたいだと思う。その遺跡に、おもちゃみたいな1両編成の電車が入ってくる。

 慣れない様子で運賃箱での精算を済ませた3人組が、大荷物を持ってどやどやと降りてきた。観光客だ。この辺りには宿がないから、隣町の旅館に泊まって始発で来たのだろう。ホームに降り立って深く息を吸い込んだ彼が、彼女が、数秒後に何と言うか私は知っている。

「いやー、空気がおいしい!」

 こういう場面に遭遇すると、まず間違いなく空気への賛辞を耳にする。たぶん、大人の世界で言うところの「とりあえずビール」くらいの頻度だと思う。そういう場所にはビール以外にもいろいろと心躍る選択肢があるのだろうが、ここにはおいしい(らしい)空気しかない。一時期お寺の池などを無理やりPRしていた町役場の観光課もさじを投げ、近年は将棋に明け暮れているという。観光客はいったい何を楽しみに、わざわざこんなところまでやってくるのだろう。

 入れ違いに電車に乗り込み、ドアを閉めて整理券を受け取る。学生証を持ってきたか不安になり財布を改めると、ちゃんと入っていた。受験票はさすがに何度もチェックしたので大丈夫……だと思いたいが、一応ファイルを開いて存在確認をする。どうやら忘れ物はなさそうだ。

 発車ベルが鳴り、車窓越しの景色が緩やかに移ろい始める。景色といっても、田んぼの隙間に民家が点在するだけの町だ。まだ暗いので、街灯の周辺くらいしか見えない。5分くらいすると空が青みがかり、山沿いに朝日の気配が漂い始めた。枕草子にそんな一節があった気がするので、あとで復習しておこう。

 私はこれから、東京に行く。
 第一志望の大学を受験するために、試験前日から東京のホテルに泊まる。いわゆる前乗りというやつだ。

 私は初めて、東京に行く。
 修学旅行で行けるかもしれないと淡い期待を寄せていたが、中学も高校もひどい行き先だった。本当に、本当にがっかりしたのを覚えている。高校に至っては、発表されたときに派手な女子が放った「はあ?」という声が忘れられない。クラス中の気持ちをまとめて代弁してくれたかのような声量だった。

 みんな、東京に憧れているのだ。
 物心ついた頃からずっと、町中で耳にする言葉の端々に東京がちらついていた。「東京では」「東京なら」「東京の人は」……東京の大学を受けるつもりだとおじいちゃんに報告したときも、「東京で名を残すような人間になれ」と言われた。それはちょっと難しいと思うけれど。

 修学旅行で海外に行く高校もあるという。海外にだって行ってみたいけれど、「東京」が持つ力はもっとずっと強い。何にこんなに惹かれるのかはわからないけれど、あの派手な女子も、物静かな図書委員の男子も、陸上部のエースも、みんな同じように東京を特別視しているのではないだろうか。まだ東京に行ったことのない私も、毎年東京のおばあちゃんの家で年越しするというあの子も。もしかしたら、「はあ?」と言われた担任も、八百屋のおばちゃんも、そうなのかもしれない。空気がおいしいあの町に生まれてしまった人たちの遺伝子には、東京への憧れが組み込まれているような気がする。

 しばらく考えを巡らせていたら、突然眩しくなってはっとした。朝日が昇り始めたのだ。空の上から下にかけて、ブルーとオレンジの鮮やかなグラデーションができている。空はどこまも広く、冬の空は高い。澄み渡りすぎている。きっと1000年前、2000年前の2月にもここには同じような空があって、同じような空気が立ち込めていたのだ。

「今日は馬鹿に早いねえ、どこまで行くの?」

 乗り換え駅に着いて運賃を払おうとすると、運転士のおじさんが話しかけてきた。私が物心つくより前からこの路線を運転している、大ベテランだ。

「東京まで、行ってきます」

 東京の空は狭いという。ビルやマンションが所狭しと並ぶ街。憧れの街。東京駅に降り立ったら、深呼吸をしよう。身体に満ちたおいしい空気を吐ききって東京の空気を吸ったら、何か変わるかもしれない。変わってほしい。

 2月12日、午前6時53分。朝の光に吐息が白くたなびく。おもちゃのような電車を見送ると、頬が少し熱くなった気がした。


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夫も書いております。

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