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君と地球の朝を歩めり

こんにちは。いよいよもう寒いですね。私は大阪から東北にきたなんちゃって北の人なので、路面が凍るとすぐに正体がバレます。歩けない。

そういえば、仙台にはおしゃれな帽子屋さんがたくさん(たぶん大阪よりはたくさん)あるんですけど、それって吹雪か冷気とかそういう物理的な脅威から身を守るためでもあるんだろうなって思います。

雪道を歩くとすぐに汗だくになるし、なぜだか明け方に寝汗をすごいかくので、ここでの冬は寒さと暑さの比率がだいたい同じぐらいです。すごい生きてるってかんじがする。

これから住むすべての場所へ

東京の道路と寝れば東京に雪降るだろう札幌のように /雪舟えま「道路と寝る」『たんぽるぽる』

さて、この前東京にすごい雪が降ったときいて、雪を印象的にあしらっている短歌はたくさんありますが、私はだんぜんこれだなって思いました。全くもってそのままなんですけど。

はじめに出会う「道路と寝る」って箇所、これは詩的なようでその実乱暴なようで絶妙な表現です。って思うとそういえば連作の題でもありましたね。
「東京に雪降る」っていうあまりに綺麗な景を、前半部分でストンと地に落としたような取り合わせです。アスファルトと雪がそれぞれ冷たいものとして響いているのがいいな。

作者が札幌の生まれであるという事実に引っ張られますが、作中主体の体の半分ぐらいは札幌でできているんだろうな。what you eat is what you are といいますがそれ以上にwhere you live is ...なんです。
だからここで東京に体を委ねるとき、自ずと内側の札幌が溢れてくるんです。横たわって脈打つ体の温さと、知らない道路の冷たさと知っている雪の冷たさ、手触りが重なり合う景に心地よさを感じます。


わたしは雪舟さんの歌を比喩ではなくそのものとして受け取ってしまいますが、この人のはそういう「通貨」を読み手に渡してくるような歌だと思います。
既存の言葉、既存の概念、既存のものを言っているのに見え方がまるで異なる。ここではそういうものなんだな、って納得してしまいます。

その国でわたしは炎と呼ばれてて通貨単位も炎だったのよ /雪舟えま「炎正妃」

ここではこれで支払ってね、って。


もう少しチャネルを現実寄りに戻します。

雪舟えまさんの歌で私がとても好きなのは、「場所」とか「名前」とかをラブいっぱいに詠み込んでいるところです。概念を丸ごと抱きしめるような大いなる感情を感じるのに、その取り上げ方はすごく軽やかなんですよね。

先に引用した歌でいうと、「東京」「札幌」どちらも実在する場所や都市ではなくて、どこか象徴みたいなものに終始しているのがおもしろいんです。東京の道路、札幌の雪、それだけのもの。

土地の思い出や、愛着や記憶……地名のことを言うとき、だいたいはそういった有機的な痕跡があるのに、いっさいそれを感じさせない。じゃあ無感情かというと全くそんなことはなくて、何かとてつもない感情が存在します。
何層も複雑に重なった地面を抜けて水がろ過されるように、感情が何かすごい層をくぐり抜ける間に、愛から雑味が取り除かれてしまったみたいです。

目がさめるだけでうれしい 人間のつくったものでは空港がすき / 雪舟えま「道路と寝る」

歌集『たんぽるぽる』の第一首目にこれを読んだとき、まだ通貨を渡されたばかりの私は、いったい何の感情なんだ、って衝撃を受けました。こんなに屈託なく「うれしい」「すき」と言えるなんて。そこにはまるで経済も重力もないじゃないか。

歌集『たんぽるぽる』の跋文では、松川洋子さんが雪舟さんの初投稿の短歌を「若草色のシュールレアリスム」と講評しています。シュールレアリスム:現実に対する「夢」とか「無意識」とかおそらくそういう。
その言葉でいうと雪舟さんの歌は、それこそ人間や現実という既存の平面をすっと離れるような、鳥類的な感覚で詠まれているのだと思います。余計な雑味やしがらみを取り除いているからこそ、人には見えない風をつかまえて、軽々と舞い上がるんです。

ヨーグルトの匙をくわえて朝の窓ひらけば百億円を感じる /雪舟えま「戦士だった」

寄り添う歌、佇む歌、すごく笑いかけてくる歌、コンビニの棚にある歌、道路の脇に落ちてる歌、顔を見たら駆け寄ってくる歌、しおりのように挟まっている歌。短歌の「景」ではなく、短歌そのものに「ふるまい方」があるなあと思います。

空も道路も遊び尽くして気がついたら肩に止まっているような、雪舟さんの短歌は小鳥のようです。

傘にうつくしいかたつむりつけて君と地球の朝を歩めり /雪舟えま「ア・スネイル・イズ・ア・ファイア」


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