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宗教改革と個人の責任、そして運命  『実力も運のうち 能力主義は正義か』マイケル・サンデル著

能力主義(メリトクラシー)批判の本。原題は『The Tyranny of Merit』

主張をめちゃ雑にまとめると
「個人主義的な・グローバルビジネスエリート的な・ネオリベ的な施策の裏にある『やればできる』的な主張の裏返し(対偶)は、『できなかったらやらなかった』であり、自助の過度の強調によって、偶然の要素への配慮を失わせる。これは他者との連帯の可能性を閉ざし、民主主義がオワコンになってまう。」
こんな感じだと思います。

「教育機会の平等を!」というのもそれはそれで大事だが、その主張自体は能力主義を推進する方向にある(機械の平等によって"正当に"競争できるようになるため)。サンデル先生はそこではなくて、能力主義に内在する問題点についてフォーカスする。哲学的な問題点については5章の「成功の倫理学」に詳しく書いてある。

ここでは、2章の宗教改革がらみの面白かったところを。

能力主義と個人責任

能力主義は「やればできる」の世界なので、「結果に負うてる自分の比重」も必然的に高いと”考えるように”なる。能力主義を貫徹するなら、どんな階級でもスタートラインを平等に補正され、偶然の要素は排されるから、失敗は自分のせいということになる。「貧乏な家に生まれたからしょうがないな」と(いい意味で)あきらめる、ということができなってしまう。
ということで、

能力主義の理想は個人の責任という概念をきわめて重視する。P.52

個人の責任という概念がキリスト教思想からどのようにして生まれ、現代の能力主義とからんでくるか、という点について非常におもろかったのでまとめる。

神の絶対性

まずは、初めは一貫して人間の自由意志的なものを否定していたよという話。

まずエントリーナンバー1番は、アウグスティヌス
人間に自由意志を認めて「悪いことやったら救われないよ。だって悪いことしたから。善行で救われるよ。」というペラギウスという人物を彼は批判した。「なにゆーとんねん。人間の行動が神の救いをコントロールするなんておこがましことはあらへんがな!神は全能やで。」といった感じか。

エントリーナンバー2番、マルティン・ルター
当時のカトリック教会は免罪符とかを持ち出して「これ買えば救われるで」とかいってたわけだが、そんな人間が自分の運命をコントロールしようなんという考えにキレた。

ルターのより一般的な主張は、アウグスティヌスと同じく、救済はすべて神の恩寵の問題であり、善行であれ儀式の遂行であれ、神の歓心を買うためのいかなる努力にも影響されないというものだった。P.58

エントリーナンバー3番、ジャン・カルヴァン
カルヴァンもルターと同じく、自分の救いを人間の側でコントロールしようなんぞできないと考えてた。「予定説」と言われるやつで、救われるかそうでないかは予定でもう決まっとるんだと。

この三者は一貫して、人間の自由意志(すくなくとも人間の行為が救いを決定するという文脈での自由意志)に対して否定的な立場をとっていた。


因果の倒錯と自助精神の誕生

しかし、このカルヴァンの予定説がカルヴァンの意に反して、原因と結果の倒錯によって個人の責任という概念を生み出していく…

カルヴァンの予定説を聞いた信者たちは、


「え、、救われるかどうか決まってるの…??決まってるならはよ教えてクレメンス…」

という感情にさいなまれた。
自分も大学の期末試験後に、
「もう絶対採点終わってるでしょ…成績発表遅すぎはよ教えて…」
という感情になった。
ちょうど大学生が期末試験の結果が気になって仕方ないように、当時の信者たちも救われるか否かというのは気になってしょうがない。

ただ、カルヴァンはこれと同時に
「あらゆる者が天職で熱心に働くように神は命令してらっしゃるぜ」
といっていた。


ここから、「熱心に労働に励むことは神に救われることのしるし(結果)である」という思想に行きつく。この思想に行きついた細かいロジックはよくわからなかったが…

 
(※) 神によって救われる人間(原因)⇒労働に励んでいる(結果

まぁでも確かにそうだ。カルヴァンは人間が救済をコントロールすることを批判したルターの系譜を継いでるのだから、この原因と結果は逆ではありえない。(これは厳密には因果関係じゃなくてただの包含関係だが)

ただしかし、この因果関係が逆転してしまうのも時間の問題というわけだ。
すなわち、

労働に励む(原因)⇒神に救われる(結果

という風に解釈されるようになった。
たしかに一生懸命働いてたらこう考えちゃうよね。

いったん、自分は立派な仕事をしているのだから選ばれた者の一人なのだと推論するよう促されれば、自分は立派な仕事のおかげで選ばれたのだと考えてしまうのも無理はない。P.60

(上記の引用の「推論する」とは言うまでもなく、「(※)の結果部分を見て原因の存在を推論する」ということ。)

こうしてみると、救済は予定されているものではなく、労働によって獲得されるものと考えられ、ここに自助の精神が確立する。カルヴァンの意に反して。

したがって、プロテスタントの労働倫理は資本主義の精神を育むだけではない。それはまた、自助と自分の運命への責任という、能力主義的な考えに沿った倫理を促すのだ。P.61

ここまでを振り返ると、神の絶対性と人間の自由意志の否定という主張が、カルヴァンの予定説解釈の倒錯によって、資本主義とセットになった自助精神(ある意味アントレプレナーシップ)が生まれるに至ったという話であった。自助精神はもちろん他の要因によっても生み出されるのだろうけど、カルヴァン派が資本主義のための労働倫理を準備したという有名な話とセットで自助の話が出てくるのは興味深いと感じました。
と、ここまではヴェーバーの『プロ倫』の話と、自由意志と責任概念についての法哲学的(?)な話を知っている人は「はいはい確かに。」という感じなのかな。僕はどっちもそんなに知らないのですんごい面白かったです。

しかしまた、「神の絶対性を否定して人間の主体性を強調したうえで、なおまた神に舞い戻ってくる」というここからの話もオモローでした^
こちらもヴェーバー大先生の論をふまえつつということですが。↓↓

神の摂理

サンデル先生は以下のように、能力主義的な秩序に潜む一面を説明する。

つまり、成功を収める人びとの権力や富は神の介入のおかげではない―—彼らは自分自身の努力と苦労のおかげで出世する――ものの、その成功は彼らの崇高な美徳を反映しているというのだ。裕福な人びとが裕福なのは、貧しい人々よりもそれにふさわしいからなのである。P.63

つまり、目の前の富の原因は自身のたゆまぬ努力であるのみならず、その原因は本当は「崇高な美徳」という、単一の行為(とその積み重ね)ではなくなにやら存在レベルの話になる。

ここで僕が思ったのは、例えるなら主人公を追いつめるライバルキャラといったところだろうか、ということだ。

念願の宿敵である主人公を追い詰めたライバルはこんな言葉を吐き捨てる

「最初からこうなる運命だったんだよ」

本当は、

「この勝利は、腹筋腕立てを毎日100回やった俺の努力さ!」

といえばいいものを、「運命」という最初から決まっていたものとして自らを権威づける。

こうしてまた神に舞い戻ってくる。

能力主義のこうした勝利主義的側面は、勝者のあいだにおごりを、敗者のあいだに屈辱を生み出す。そこに反映しているのは、依然として残る神の摂理への信仰である。P.63

「摂理」というと「自然の摂理」みたいに「そうなるべくしてこうなった」というような意味なので、ある意味で「予定説」というか決定論に戻ってきたという感じなのかなと。もちろん本来の神の絶対性を示す予定説とは異なった形で。


ということで時間あれば5章についても考えてみたいなと。ツンデレかと思われるくらいロールズを追いかけ回すサンデル先生が相変わらず「正と善」の問題について熱く語ってます。市場価値と道徳的価値、功績と資格などの概念とともに。




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