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連続テレビ小説「虎に翼」と「原爆裁判」

 今日は、NHK連続テレビ小説「虎に翼」でストーリーの中心となるであろう「原爆裁判」について書きたいと思います。

「虎に翼」主人公・寅子のモデル 三淵嘉子

「原爆裁判」について説明する前に、この裁判の中心的人物であり、NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデルとなっている裁判官・三淵嘉子さんについて、少し紹介します。

三淵嘉子さんは、日本女性で初の司法試験(旧司法科試験)の合格者のひとりで、弁護士を経て裁判官(判事)、裁判長、裁判所所長を務めた法律家。なかでも家庭裁判所の立ち上げに尽力し、延べ5千人の少年少女の審判に携わったことで、後に「家庭裁判所の母」と呼ばれた法曹界のレジェンドです。

そんな三淵嘉子さんが、1956年5月、東京地裁判事となった時に、広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当することとなります。

原爆投下の正当性

「原爆裁判」を語る前に、その争点の一つとなった原爆投下の正当性について書きます。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、物理学者であるオッペンハイマーを中心として科学者、技術者を総動員し、マンハッタン計画が、開始されます。

1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において、人類史上初の核実験「トリニティ」が実施され、原子爆弾という悪魔が誕生します。

因みに、映画「オッペンハイマー」では、原爆が実際に使用されたことに後悔し、原爆及び水爆の開発に反対の意を示す場面が登場しますが、これはある意味間違った表現であると言えます。

当初から、原子爆弾の使用に反対し、アメリカ政府及び大統領に原爆を使用をしないように説得していたのは、原子分裂を最初に予言したデンマークの理論物理学者ニールス・ボーアであったと言われています。
オッペンハイマーは、ただ単純に科学的好奇心により原子爆弾開発に関わっていただけであり、原子爆弾の政治利用については、全く無知であっといわれています。(又、アインシュタインもオッペンハイマーと同罪であり、ルーズベルト大統領へ手紙を出し、ナチスが原爆を開発した時の危険性について警告しています。結局は、これがマンハッタン計画への「Goサイン」となっています。)

1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域となったポツダムに、イギリス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われ、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談が、ポツダム会談と言われるものです。

ルーズベルト大統領が急死したことにより副大統領であったトルーマンが、大統領に就任し、アメリカ合衆国の代表としてこのポツダム会談に参加していました。この席上で、トルーマン大統領は、原子爆弾の完成したことを知らされます。

このポツダム会談が行われていた1945年7月26日に、まだ、戦争状態であった日本政府に対して無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が決定し、日本政府にこれが通知されます。

この日本政府に対して無条件降伏を求める方針は、日本軍の真珠湾攻撃に対して完全に日本を目の敵にしていたルーズベルト大統領が突然発案したものであり、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていました。

また、アメリカ合衆国政府内でも、これが日本の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、国務長官のコーデル・ハルも反対したと言われています。

このポツダム宣言が出される時には、アメリカ政府要人、イギリス、ソ連は、日本政府に「天皇の身分保障」をすれば簡単に降伏することは予測できていたはずです。

しかしながら、この会談に臨んだアメリカ大統領であるトルーマンは、大統領になってまだ3ヶ月であり、政府内及び外交においても十分掌握出来ていませんでした。従って、前大統領であるルーズベルトの政策をそのまま実行することとなります。

この時に、日本政府は、不可侵条約を結んでいたソ連を通じて、国体(天皇制)の維持を条件に降伏する意志のあることを暗にほのめかしていました。

しかし、ポツダム宣言で、日本の天皇の身分を保証する事、いわゆる「天皇維持条項」について協議する余地は残っていたのに、アメリカは、これを拒否し、自ら日本との徹底抗戦の道を選びます。

その真意としては、トルーマン大統領やアメリカ軍要人は、原子爆弾というジョーカーをこの時に隠し持っていたために、原子爆弾があれば、日本の軍事抵抗は容易にコントロールできると想定していたと思われます。(原爆の真の怖さが理解できていなかったと思われます。)

アメリカは、当然、日本が無条件降伏を受け入れることはないと見ていました。しかし、日本との交戦継続は、原子爆弾を使用するための口実である、「原子爆弾は、日本との戦争継続において、アメリカ国民の犠牲を最小限にすることができる」が主張できると考えました。

しかし、真実は、アメリカは第二次世界大戦後の世界を支配するために、最初から原子爆弾を使用することを想定しており、前項の口実を使って、アメリカが「自国の防衛の為にあらゆる兵器の使用を認める」といった国際法を利用できると考えたのでした。

ハッキリ言って、初めから、アメリカに原爆使用の正当性など存在しないのです。

原爆投下とハーグ陸戦条約

アメリカ軍は、原爆投下を最初から想定しており、それに対して色々なシナリオを立案していました。

まず、投下方法では、

1 原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として威力を示す。
2 原爆を軍事目標(軍港や基地など)に落とし大量破壊する。
3 原爆を人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮する。

そして、使用する時期については、

A 事前予告をして投下する
B 事前予告なく投下する

という三つの投下方法と二つの時期の組み合わせのオプションが挙げられていました。

結局、国際法遵守と原子爆弾の威力誇示という二つの命題を遂行するために、「3A」という選択肢を採用します。

かくして、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に、原子爆弾(リトルボーイ)が、投下されます。

しかし、不思議なのが、いくら探しても広島への原爆投下指示書にトルーマン大統領のサインがないことです。

これは、原爆投下の判断が、大統領命令ではなく、単にマンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスの独断で発せられた「広島・小倉・長崎のいずれかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべし」という投下指令書だけで行われたということです。

これは、アメリカ大統領であるトルーマンが、軍関係者への統制が取れておらず、日本と同様に「軍部の暴走」に歯止めがかかっていなかったことを明確に示しています。

広島への原子爆弾は、広島の中心地である相生橋の上空600mで炸裂します。爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こします。

爆心地付近は鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒され、強烈な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発していき、苦悶の姿態の形状としか表現できない「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残されます。爆心地から3.5kmにおいても素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負ったと言われています。

また、爆風や衝撃波の被害も甚大で、爆心地から2km以内の全ての構造物が破壊されています。爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も引き起こし、全体で14万人が原爆により死傷します。

人体への被害は、これだけに留まらず、その後何十年過ぎても火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られました。

この事実のみを考えても、原爆投下は、通常の大型爆弾ではなく、毒ガスや生物兵器と同様に、非人道的で残酷な兵器であり、ハーグ陸戦条約第23条5項の「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」に明確に違反しています。

又、原爆投下時は、広島長崎は戦地ではなく無防備都市であり、「無防備都市に対する無差別爆撃」を禁じた国際法にも明らかに違反しています。

原爆裁判の始まり

1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ講和条約において、日本は全ての訴訟権利を放棄します。当然、これは広島長崎の原爆投下に関して、アメリカに対する損害賠償も含んでいました。

これは、いわば、国の復興のために、第二次世界大戦に対する総括が行われずに、戦争という悲劇に蓋をした状態でした。

この為に、これを不服として、1955年(昭和30年)4月25日に東京地方裁判所原告3名、そしてその翌日に大阪地方裁判所原告2名により、国家賠償法に基づいて国に対して損害賠償を提訴します。所謂、「原爆裁判(下田事件)」が、開始されました。

ここで原告の5人とは、

広島で被爆し、長女16歳、三男12歳、二女10歳、三女7歳、四女4歳が爆死。自身もケロイド、腎臓・肝臓に障害が残り、就業不能となった下田隆一さん。

東京に単身赴任中、長崎で妻と4人の娘たち全員の爆死を体験した浜部寿次さん。

広島で被爆 顔、肩、胸、足に大きなケロイド。ひどい痛みで就労が続かず、夫に醜さが原因で家出された多田マキさん。

広島での原爆投下により、養女とその夫、その子どもを亡くした岩渕文治さん。

14歳の時、広島で被爆し、顔、左腕などを負傷。両親を原爆で亡くした川島登智子さん。

原告代理人弁護士には、岡本尚一さんが担当。戦後の裁判を引き受けた際、連合国側が原爆投下に対して何らの反省も示さなかったことから「原爆訴訟」の提訴を決意し、全力で弁護を担当しますが、提訴から3年後、東京地裁の口頭弁論前に死亡し、その後、松井康浩弁護士が後を引き継ぎます。

東京地方裁判所及び大阪地方裁判所において、当初、個別に準備手続きがおこなわれますが、1957年(昭和32年)2月に大阪地方裁判所原告側から東京地裁に移送の申し立てがなされ、同年4月に東京地裁に移送決定します。

訴訟が併合された後、数度の裁判手続準備を経て、1960年(昭和35年)2月から、東京地裁で第1回口頭弁論が開かれます。

この時の東京地裁の裁判官が、裁判長・古関敏正さん、判事に高桑昭さんそして、連ドラの主人公である寅子のモデルである三淵嘉子さんでした。

この訴訟での争点は、二つ

1 原爆被害者の賠償請求権の有無
2 原爆の国際法違反の有無

でした。

訴状には、原爆の被害についてこう書かれています。

「原子爆弾投下後の惨状は数字などのよく尽くすところではない。人は垂れたる皮膚を襤褸(ぼろぼろ)として、屍(しかばね)の間を彷徨(ほうこう)号泣し、焦熱地獄なる形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻(さんび)なる様相を呈したのであった」。

そして原爆投下は国際法違反である。原爆の被害を与えたアメリカに対する原告の損害賠償請求権が、国が締結したサンフランシスコ講和条約により放棄されてしまった。従って、国は、憲法29条3項(私有財産の正当な補償)により補償すべきであるという主張をします。

一方、被告である国は、「原爆投下が国際法違反とは断定できない」と争い、被爆者への賠償や補償の義務も否定します。

ここで、原告と被告の最大の争点が、原爆投下が国際法に違反しているかどうかの一点に集中します。

この為に、地裁の裁判でありながら、裁判所は双方の申請に基づいて、3人の国際法学者(田畑茂二郎京大教授、高野雄一東大名誉教授、安井郁法政大教授)に鑑定を依頼します。

地裁でありながら、これら高名な国際法学者による高度な国際刑事法の審議が行われます。

裁判所の審理は、準備手続きだけで実に27回、口頭弁論は結審まで9回、通算8年に及びました。その間に、原告である岩淵文治さんは死去し、亡き岡本尚一弁護士の後を松井康浩弁護士が引き継ぎました。

この口頭弁論の全てに参加したのが、唯一、朝ドラの主人公・寅子のモデルである三淵嘉子さんでした。

原爆裁判の判決

そして、1963年(昭和38年)12月7日に東京地裁において判決が言い渡されます。

裁判長は、「主文:原告(被爆者)への賠償を棄却」を言い渡します。しかし、最大の争点である原爆投下の国際法違反について、こう指摘します。

「広島、長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法から見て、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」

当然、核兵器が国際法に違反するという裁判所の判断は、世界でも初めてのことでした。当時の報道によれば、裁判長が国際法違反と述べた瞬間、法廷は誰一人言葉を発することなく、静まりかえったといいます。

そして判決は、最後にこう述べます、

「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかも、その被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告(日本政府)がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは多言を要しないであろう」

「しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会および行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかもそういう手続きによってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができる」

「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはいられないのである」(判決文より抜粋)

この判決文に込められた意味とは、日本政府が、本訴訟の中で、原爆を正当化する米国の主張をそのまま答弁する態度。特に、「政治の貧困」という言葉には、アメリカに追従することのみを行い、原爆被害者及び戦争で犠牲になった全ての人々へ配慮しない政府の姿勢に、三淵さんを含めた裁判官3人の怒りが込められているのではないかと。

原爆裁判のその後

原爆被害者である原告は敗訴。原告及び被告両方とも上告せずにこの裁判は結審します。

連続テレビ小説の主人公・寅子のモデルでもある三淵さんは生前、この裁判について、何も語っていません。おそらく評議の秘密に配慮したためでしょう。

ただ、三淵さんは、戦争によって夫と弟を亡くし、戦後10年あまり、1人で子どもを育てながら裁判官として働き続けます。戦争の悲惨さは自らも痛いほど分かっていました。

否、彼女に限らず、ほかの裁判官も、松井弁護士も、さらに言えば国側の代理人も、戦争は当時の日本人の「共通体験」であり、悲惨な戦争と、原爆の被害を2度と繰り返してはならないという思いは、実はみんな同じだったのではないでしょうか。

この判決で示された「国際法違反」と言う判断も、行政に対策を求める根拠となりました。

国会で被害者の救済において法整備が進められ、1968年の原爆特別措置法を経て、1995年の被爆者援護法施行によって原爆症認定制度が設けられ、支援の枠組みは順次拡大。原爆症認定を巡る集団訴訟で、被爆者が長年、原爆放射線の被害に苦しめられた実態が明らかにされます。

影響はさらに広がります。判決は英訳されて海外でも知られるようになりました。1996年、国際司法裁判所は初めて核兵器の使用と国際法についての勧告的意見をまとめます。そこには「核兵器の使用や威嚇は、一般的には国際法の上では人道主義の原則に反する」と記されました。

しかしながら、一方で「究極の自衛権行使の際には違法か合法か結論づけることはできない」とも書かれており、核保有国の核弾頭廃棄(デタント)への道は、未だ半ばの状態となっています。

連続ドラマの主人公・寅子のモデルである三淵さんは、この裁判の判決時には、既に転任していました。しかし、この判決文の原本には三淵さんのサインが残されており、この裁判の結果には満足していたのではと思います。

三淵さんは、GHQの勧告により新しく作られた「家庭裁判所」の立ち上げの時期から関わっており、各地の「家庭裁判所」の所長として赴任し、「家庭裁判所」の充実の為に、人生の情熱を傾けます。

新潟家裁時代も、所長をしながら自ら少年事件の審判を担当していたそうです。当時立ち会った調査官によれば、三淵さんの心のこもった「説諭」が感動的だったと言っています。事件を起こした少年も付き添いの保護者も、三淵さんの語りかける言葉に涙を流していると語っていました。

この様に、三淵さんは、その生涯を「弱き者の権利の擁護」の為に捧げています。残念ながら、1984年5月28日午後8時15分、骨肉腫のため69歳で死去。国は三淵さんの功績を称えるために、没日を以て、従三位に叙し、勲二等瑞宝章を授けています。

NHKは、最近、中国のプロパガンダに利用されたりなど不祥事が続いていますが、今日書いたように、連続ドラマに生涯「弱き者」の為に戦った三淵嘉子さんをモデルにドラマを制作したり、ドラマ中に「原爆裁判」を取り上げるなど、国営放送の矜持を見ることができ安心しています。

最後に、ラッセル・アインシュタイン宣言(1955)を紹介して終わりたいと思います。

ラッセル=アインシュタイン宣言(Russell-Einstein Manifesto)は、イギリスの哲学者・バートランド・ラッセルと、アメリカの物理学者・アルベルト・アインシュタインが中心となり、1955年7月9日にロンドンにて当時の第一級の科学者ら11人の連名で、米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文です。

宣言文抜粋:
大部分の人間は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が何らかの方法で解決され、誰もが――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろうと――、出来うる限りの満足を得られなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望んでいる。

私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

決 議:
私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、つぎの決議に署名するようすすめる。

「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。したがってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する。」

1955年7月9日 ロンドンにて

マックス・ボルン教授(ノーベル物理学賞)
P・W・ブリッジマン教授(ノーベル物理学賞)
アルバート・アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)
L・インフェルト教授
F・ジョリオ・キュリー教授(ノーベル化学賞)
H・J・ムラー教授(ノーベル生理学・医学賞)
ライナス・ポーリング教授(ノーベル化学賞)
C・F・パウエル教授(ノーベル物理学賞)
J・ロートブラット教授
バートランド・ラッセル卿(ノーベル文学賞)
湯川秀樹教授(ノーベル物理学賞)








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