勉強が楽しくなるとは
こんばんは。今日は授業中の一言から。
昨日、古典教育の実践に関する授業に参加しました。教授はおそらく「古典は本当に必要なのか」、通称「こてほん」で古典必修擁護派の1人として動いていた方なんだと思います。「こてほん」については以下の記事が参考になります。
この問いについては、授業を通じて自分の考えが見えてきたら書くつもりです。
今回はここではなく、「勉強や研究を楽しむこと」というテーマで書きます。
昨日その教授がおっしゃっていたことがありました。引用文の形にしていますが聞いたものを思い出して書いているので正確ではありません。
僕は古典が嫌いでね、高校で赤点取ってたんですよ。古典なんかやりたくないって思いながら大学に来てね。大学で勉強したんですよ。そしたらね、楽しくなったんです。不思議でしょ。でもね、研究するのは辛いなと思っていたんです。でもね、やってるうちにわかることもあってね、研究するのが楽しくなってきたんですよ。そういうことを伝えられる先生がいてもいいんじゃないかなあと思うんです。
記憶を辿ると、おそらく私は古典が好きでも嫌いでもありませんでした。
少し違うな。漢文は結構好きだけど古文にはこだわりがなかった、が正解です。
しかも漢文が好きなのは内容どうこうではなく、一度句法と語法を覚えてしまえばある程度楽に読めてしまうからでした。
だから、大学に入ってから比較文学の中でも和漢比較文学(あるいは日本文学同士)を面白いと思うまでは古典への眼差しがほとんどありませんでした。
1年の夏に古典日本語という授業をとって、漢籍から平安文学、言文一致までの文体変遷を見るという経験がなかったら、古典を蔑ろにしたまま(あるいは無関心なまま)だったんだと思います。
※ちなみにこの授業がきっかけで専門を決めました。まだ平安文学の授業が取れていない(私の代は必修ではない)のですが、漢文学、上代、近代、現代、と日本文学を勉強しています。
そうは言っても、文学で「勉強するのが楽しい」というニュアンスが私にはよくわかりませんでした。ずっと演習形式なので「講義」と距離があったからかもしれません。卒論も来年なので「研究が楽しい」もわからないのですが。
それでモヤモヤしながら、今日は大学の図書館にいました。来週発表があるので、文献を当たるためです。テーマは中島敦の「名人伝」という短編。元々の関心に近いところにある作品です。
図書館の利用時間は限られているので、ひたすら先行研究を読み、要約し、関連文献を探しにいく、を繰り返すだけでしたが、それが時間を忘れるくらいに楽しかったんです。特に楽しかったのが、先行作品とされる『列子』『荘子』『戦国策』などから該当部分を見つけて読む時でした(佐々木充先生の論文が詳しい)。そこから読みのアプローチが色々と広がってきて、まとまらなくなってきたんです。ただ話をふんふんと聞いているよりもずっと、(時として苦痛ですが)考えることが楽しくなった気がしました。
これは勉強なのか研究なのか、いまいちわかりません。先行研究のインプットは勉強でしょうが、そこから考え始めると研究要素が入ってくるような気がします。
初めて発表した時(テーマは『古事記』の解釈でした)、レポートを書いた時には先行研究を踏み台にすることも自分の考えを論理的に語ることもかなり苦しかったと記憶しています。それが今は、(関心が高い作品だからかもしれませんが)面白さや楽しさを見出せている。振り返ると文学理論や翻訳理論を勉強した時もワクワクしたような。そういう「学習者」としての成長や変化のことを、先生は「そういうこと」で指していたのかなあと意味づけています。
あのセリフと直接結びついられているのか怪しいところではありますが、こういったことを面白いと伝えられるような教師になれたらいいなと思ったのでした。
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