「松の木の物語 ~(その6)切り株からの歴史発見」 ※神回です
伐採が終わっても、何人もの人々が、唐臼山頂から去らずに残っていた。老松の樹齢がどのくらいのものだったのか、誰もが興味を持っていたのだ。森林組合の伐採責任者、短大の女子学生2人、計3人が年輪調べの中心となった。
調べているうちに、森林組合の方が年輪の特異性に気付いた。
幹の中心部分を見ると、年輪に偏りが見られるのだ。それが、もう少し外側になると、膨らみが正常に戻っている。
その指摘に、回りも反応して、あれこれと想像を膨らませた。
「枝が一方にしか伸びられなかったらしい」
「年輪は、枝の伸びる方向に太くなるからなぁ」
「何か伸びを妨げるものがあったんだろう」
「一体何があったんだかなぁ」
「何か、建物でもあったのか」
そんなことを話しながら、和気あいあいと年輪調べは終了した。
老木もついに伐採された。村山さん自身、最後の締めくくりのつもりでの年輪調べだった。
樹齢215~220年。新田村開村の時期とほぼ一致している。
唐臼山頂は、新田地区から見ると、東北つまり鬼門にあり、鬼門封じとして植樹された可能性もある。
そして、年輪調べの場で発見された「年輪の偏り」。
これが契機となって、老松保存活動が大きく動き始めることになる。
片方に大松の成長を妨げる何かがあったが、ある時期にそれが無くなった。
ということは、かつて2本の松が並んで立っていて、あるとき1本だけが、枯れるなどして、無くなってしまったのではないか・・・。
村山さんは、そういう仮説を立てて、再度調査を開始した。
その結果、地域の最長老から、こんな証言を得ることができた。
「子どものころ、確かあそこを《二木神社》と呼んでいた」
村山さんは、その証言を裏付けるものはないかと動き回り、新田公民館の押入れの奥から、古い資料を見つけ出した。
幸運にも、明治時代からの事務日誌が、ボロボロの状態になりながらも、捨てられずに残っていたのだ。
虫食いだらけの冊子は、長い間開かれたこともなく、各ページがくっついており、めくるのも困難な状態になっていた。
それを1枚1枚慎重に剥がしながら、約半月かけて丁寧に調べていった。
その結果、事務日誌の中から「二木神社」という文字を発見。
山頂で二木神社の祭典を行なったことが縷々と記録されていたのだ。
このことを、塩田文化財研究所の黒坂周平先生に報告すると、先生のほうが驚いた。
古文書《依田文書》に、戦国時代末期の天正6年(1578年)、上小地方を支配していた武田勝頼が、重臣跡部勝資の名で所領安堵したという神社の名前が7つ記されている。その中で、二木大明神だけが場所が分からず、郷土史研究家から「幻の社」と呼ばれていたのである。
《二木》という名称から、二ツ木峠にあるのではないかという説が有力とされていたが、発見には至っていなかった。
唐臼山は、下之郷東山古墳群の前中山第1号・第2号古墳のあった所として、専門家には知られていたが、二ツ木峠とはまったく離れた場所にあるそこが、二木大明神の跡地だとは、誰1人として、想像さえしていなかったのである。
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