「最初の記憶 ~ 2歳の頃を振り返って」後編
「じゅんこねえちゃんがウチに来る前に、家政婦さんを雇ったことがあるのよ」
「え? そうだったんだ・・・、全然覚えてないけど」
「あんたはまだ赤ちゃんだったからね」
「あたしが出産のために入院してたときだよ。中学を出たばかりの若い人でね。金銭管理に問題があったの。だから、すぐに辞めてもらったのよ。おばあちゃんに対してももバカにしたような態度で接するしね」
「おばあちゃんって、加世田のおばあちゃん?」
「その頃は一緒に住んでたのよ。まだ独身だった千恵子伯母さんが来てくれてたこともあるんだよ」
「それは全然知らなかった」
「そのあと、じゅんこねえちゃんがウチに来たんだけど、年も近かったから、赤ちゃんだったあんたには区別が付かなかったみたいだね」
妹が生まれる前だとすると、自分はまだ1歳。その頃の記憶なんて、目に見えるようなはっきりとしたものではなく、霞がかかったように漂っている気配のようなものでしかなかった。それが母の話で、曇ったガラス窓をぬぐったみたいに、はっきりと見えてきた。
父の口から繰り返し聞かされたこんな話がある。自分では直接覚えていないが、焼酎の好きな父が、晩酌しながらご機嫌よろしく話して聞かされたので、話としてよく覚えている。
「めどうは、ロバのパンに轢かれたことがあるんだよ」
実際は「めどう」ではなく、戸籍上の別な名前だったことを一応断っておこう。
「日曜日だったから、ウチでのんびりしていたんだよ。そしたら、玄関の扉をドンドンと叩く音が聞こえるもんだからね。何ごとかと思ってびっくりしたよ…。急いで扉を開けると、青ざめた顔をしたおじさんがめどうを抱えて立ってたんだよ。足先を轢いてしまったって、おろおろしてねぇ…、可哀そうなくらい困り切った顔をしてたよ。だけど、靴を脱がして見てみたら、別段赤くもなってなかったよ。実際は轢いてなかったんじゃないかねえ。轢いたとしても靴の先をかすった程度だったんだろうね。たぶん、びっくりして泣き出したんだよ。おじさんは、それを轢いたと勘違いしたんだね。ぺこぺこ何度も頭を下げてパンをたくさんくれたよ。一日の売上なんか大したことないだろうに、却ってこっちが気の毒だったよ」
ほろ酔いの上機嫌な笑顔を浮かべながら話すものだった。
この話は小学校に上がった頃まで繰り返されたので記憶にはっきりと刻み込まれたが、直接的な記憶としては全く残っていない。いつも軽い気持ちで受け止めたまま、改めて記憶を掘り起こしてみようとはしなかった。
ところが、そうではなかった。
そのことを覚えていないのではなく、実際は鮮明に記憶していたのだ。
ただし、「ロバのパンに轢かれたこと」としてではなく、「ヒトサライに抱きかかえられたこと」として。
こうやって古い記憶を辿って記しているうちに、あることに気付いた。
意識の底に転がっている記憶のカケラを、改めて拾い集めてみる。
①屋台の御者席に、知らない人の顔が見えたこと。
②誰かに背後から抱きかかえられたこと。
③鼻息と唸り声。激しく揺れ動く視界。
④ロバのパンに轢かれたこと。
これら全ては、別個に起こったことではなく、同一日に連続して体験したことだ。
轢かれて泣いたのでも、近づきすぎた屋台に驚いて泣き出したのでもない。
その日、いつものおじさんとは違う人の顔が見えた瞬間、嫌な気分になった。しかも、自分に目もくれず通り過ぎて行く。
いつも笑顔で馬車を止めてくれていたのに完全に無視された。
― ひどい! そんなのないよ! ―
その無情な仕打ちに打ちのめされて泣き出したのだ。
子どもの泣き声に驚いたパン屋は、てっきり轢いてしまったと思い込み、あわてて御者席から飛び降り、泣いている自分を抱えあげた。
― やっぱりこの偽ものパン屋の正体はヒトサライだった! ―
恐ろしさのあまり、さらに火が付いたように激しく泣いた。
パン屋は大慌てで子どもの家を探して駆け出した。背後から荒々しい息づかいと唸り声が聞こえ、視界は上下左右にと激しく揺れた。
それまで無造作に漂っていただけのぼんやりとした記憶のカケラたちが全て結びつき、鮮明な記憶として蘇った。
幼少時の小さな事件が、じつに50年以上の歳月を経てはっきりと見えてきた。
このときの不思議な気持ちを、一体どう表現したらよいのか、よくわからない。
実は、それ以外にも、記憶を辿っているうちに新たに分かったことがある。
上田市の同人誌『顔』のための原稿を書いていた30代の頃、この鷹師町時代のことを題材にしたエッセイを書いているうちに、その家の周辺地図が、その頃住んでいた上田市中之条の自宅近辺とよく似ていることに気付いた。
― そばに川が流れている。自宅から川に向かうと、右方向に橋が架かっている ―
両方の場所にそれが当てはまっている。
さらには、両親が住む家にもそれが見事に当てはまる。
男性は子どもの頃育った環境に似た場所を住まいとして選ぶと聞いたことがある。
であるとするならば、父が幼少期を過ごした家にも同じ条件が当てはまっていたのではないか…。父が少年時代の記憶に無意識の影響を受けて住む家を選択し、さらにそれを自分が受け継いだのではないかと考え、故郷鹿児島に電話して確かめた。
受話器を取った母にそのことを話すと、そばにいた父に聞いてくれた。
― 子どもの頃住んでいた家は、川のそばで、家から向かって右方向に橋が架かってたのではないか? ―
その問いに対して返ってきた答えは「Yes」だった。
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「最初の記憶」と題して、ここまで主に2歳時の体験について書いてきたが、それ以前と思われる一場面が記憶に残っている。
かつて、父の実家が、鹿児島県加世田市(現南さつま市加世田)にあった。
私が生まれて初めて立ち上がったのが、その加世田の実家だったことを父から何度か聞かされた。
なかなか立ち上がらないので、いつ立つのかいつ立つのかとやきもきしていた中で、やっと立ち上がったのが祖母の住む加世田だったという。
「立ち上がったと思ったら、その日のうちにもう走っとったよ」
笑顔を浮かべながら、そう話す父の声を何度か耳にした。
その初めて立ったときの記憶かどうかははっきりしないが、加世田での瞬間的な記憶が残っている。
靴を履かせてもらった後「家からあまり離れちゃいけないよ」と言われ、よちよち歩きで玄関から数歩歩いては戻り、戻ってはまた少しだけ行動範囲を広げるという「冒険」を繰り返していた。
庭先から少しだけ離れ、表通りに通じる路地に一歩踏み出した時だった。たまたま表を通りかかった若い女性がこちらの存在に気付き、ちょっと首をかしげて一瞬にこっと笑った。
そのような仕草を見たことがなかったので、どう反応して良いかわからず、すぐに後ろを振り向き、逃げ出すようにしてその場を後にした。
どんな顔立ちだったまでは思い出せないが、優しい笑顔がまぶしかった。幼児の低い目線で見上げた、美しいソフトフォーカス写真のような記憶が、鮮やかな印象を残している。
白いハイネックのセーターを着た色の白い小柄な人だったが、記憶の中で美化されている可能性もある。
このときの印象が、思春期に至るまで「理想の女性像の原型」として心に刻まれていた。
もしこれが初めて立った日の記憶だとすれば、2歳の誕生日を迎える2か月前だったことになる。