「小松帯刀屋敷跡」
故・司馬遼太郎氏の著書「街道をゆく3 肥薩のみち」の中に、こんな記述がある。
― 小松帯刀屋敷への道は、どこをどう通ってゆけばいいのか いまでは思いだす手がかりもないほど、ややこしかった。途中、何度も道をきいた。
これには首を捻ってしまった。
この文章からは、まるで迷路のように入り組んだ町の中を、迷い迷いながら歩いたかのような印象が伝わってくるが、実際の道筋は至ってシンプルだ。
市営バス原良線のバス停「かけごし」を降りて、原良本通りをバスの進行方向へ200メートルほど歩くと、案内板が見えてくる。そこから左折して小路にはいると、あとは道なりに2分も歩けばそこに辿り着く。
だが…、ちょっと待てよと…、その周辺は、自分にとっては子供の頃から親しんでいた場所。
だからこそ、そう思えるのかも知れない。
そこで、改めて考えてみた。
順路の起点を鹿児島市でも中心地に近い「鶴丸城跡地」に設定し、小松邸跡地への道順の予備知識が「バス停『かけごし』から歩いて5分」程度のものだったとしたら…。
さらに、司馬氏が訪ねた頃、案内板が未設置だったとしたら・・・
そうだとすると、ちょっと難しいかと…、思えなくもない。
NHK大河ドラマ『篤姫』で、日本国民の前に突然現れた「尚五郎さん」。これまで、薩摩といえば「島津」「西郷」「大久保」などは有名だったが、それに比べると一般的知名度は低く、地元での扱いにも雲泥の差があった。
西郷ゆかりの地であれば、「生誕地」「没地」「墓」「銅像」など、それぞれが観光地化しているので、周囲に漂う空気に誘われるように、いとも簡単に辿り着けるが、「小松帯刀屋敷跡」は、何の変哲もない古い住宅地の一角に、ひっそりと佇んでいる。
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「とりあえずバス停『かけごし』で降りたら、なんとかなるだろう」
もし、そう思っていたのなら、バスを降りた時点で途方にくれるかもしれません。
その近辺に案内板などは見当たらず、史跡訪問者を出迎える雰囲気など皆無。在住市民の生活のためだけに機能している、ただの「見知らぬ町」でしかないからです。
「原良本通り」を、降りたばかりのバスの進行方向に向かって、200メートルほど歩き、城西歯科の手前に立っている案内板を左折します。
屋敷跡の位置を知る手がかりは、この案内板のみです。
ご覧のとおり、この先に「史跡」があるなどという雰囲気など皆無です。
ところが、そんな平凡な町の曲がりくねった小路を歩いてゆくと、突然このような高く大きな古い石垣が出現します。
その石垣にそって左の小さな坂を上ると、
旧小松邸の入り口が見えてきます。
さきほどの石垣の上には、こんな築山があります。
この石灯籠、「坂本龍馬の立ち姿に似ている」と、小松どんが言ったとか…。 これらは、正面から右の一角ですが、
左側に視線を移すと…
臥竜梅が咲いていました。 (※撮影は2月11日)
保存状態が良いとは言えませんが、まさに「竜」のごとく身をくねらせています。
樹齢300年。小松どんも確実に目にしています。 臥竜梅。司馬遼太郎氏の著書によると、「薩摩の中ぐらいの士族屋敷では家格の象徴のようにして愛し、たいてい小庭に持っていた」ということです。
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こうして、写真を並べてみると、 馬遼太郎氏が屋敷までの道中の印象を、「ややこしかった」「思いだす手がかりもない」と書いたのが、解るような気もします。 そこに辿り着くまでの景色が、記憶に留まりにくいのです。