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久しぶりのNOTE

NOTEを書こうと思いつつ気づけば随分と時間が経ってしまいました。

今回は夏休みの振り返りとかとか思ったことを書いていこうかなと思います。

夏休みにはいろいろ計画をしていたのですが、気づけばずっと東京にいて、どこにも行かず夏休みが終わってしまいました。でも、この期間では様々なことを感じて学ぶことができました。

まず、自分の活動で詳しくは書くことはできないのですが、様々な人に会う夏休みでした。海外ルーツの人に会い、話をするこができました。私は20歳で自分の過去の傷や思ったことを言語化することができていない状態です。(そういう状況であるということに気づけました。自分はもういろいろ言語化できていて過去のしがらみからは自由になったと思っていました。)しかし、自分より少し年齢の上の海外ルーツの方は自分の過去を言語化したり、その傷に向かっている人に出会うことができました。心の中であった傷を言語化していく、またその傷に向かいあっていないのだなと思いました。自分の過去の傷に関しては怖くて向かいあっていませんでした。(というか、ある程度済んでいると思っていました。)ここに触れると自分の今立ってる世界が崩れるような気がしていて、過去に蓋をしてきたことを再確認するきっかけになりました。

今回は語るということ/言語化するということに関して、語るということの難しさ。なぜ難しいと感じるのか。に関して書いていこうと思います。

自分の傷や過去のトラウマに気づいたわけですが、それをうまく言語化できないと感じた夏休みでもありました。
元々感情を日本語にするのはとても困難であると感じています。その理由はわからないのですが、幼いころ日本で自分の感情を抑えてきたためかな、とか日本の学校で傷つけられたときに英語なら誰もわからないと思い、感情を英語にしていたからかもしれません。ですが、英語であっても完璧に自分の感情を伝え切れているわけでもないのです。(全てを伝えるのは無理だとも思っています。)

そして、海外ルーツの人と話す場合には、似たような経験をした人がいたり、そういう話を多く聞いてる人もいるため、あまり言語化しなくても通じることが多いです。

しかし、いわゆる日本人の人と話すときには、言語化する際に、難しさを感じます。例えば、「純日本人にはないものを持っていて羨ましい」とか「でも英語とか話せていいじゃん」「自分はそういうふうには見ないよ」と言われてしまうことがあります。
これをどうやって傷ついているということを伝えるのか、これを毎回言われることに対して苦しんでいるということをどのように伝えるのか、とても難しいです。理解してほしいという気持ちと理解してもらえるのだろうかという問いを自分にいつも投げかけています。海外ルーツの中だけで、理解して傷を慰めあうだけでは、現状は変わらないだろうということはわかっています。しかし、なぜ理解をしてくれない、傷ついてきた人に傷つけられた私たちが説明しないといけないのだろうという内心の葛藤もあります。過去を思い出す、日々のマイクロアグレッションを語ることは、自分も思い出して傷つくことは変わりません。その葛藤からか言語化できていないものがあるのかもしれません。

語ること
私はいろいろなことを人と話すのがとても好きです。(ちょうど昨日も他学部の友達と哲学対話みたいにして3時間近く話しました笑)人生の価値観や政治のこと、教育のことなどを話しています。そのテーマでも自分の過去のことに触れることはあります。ですが、それはほんの一部で自分の過去が今の価値観に影響しているからだと思います。
ですが、大切な人と自分の過去(つまり、海外ルーツとして受けたいじめやマイクロアグレッションに関して)を話す時に、すべてを語ることはできないと感じています。全ては語り得ないし、深く知って欲しいし知りたいと思って話を聞いてくれているのはわかってしても、言語化できていないものがあるので、話せないし、理解してもらえないものはあると思います。でもこれは、相互互換的な気もしています。いわゆる純日本人として日本に生きていても、親との関係や過去の出来事など私が理解できないものもあると思うわけです。なので語るということはお互いの持続的な努力によって成し得るものであり、他者を知るということに関しても、向かい合う努力がいるのではないかと感じています。

⭐️一度読んで欲しいもの、聞いて欲しいもの
https://www.instagram.com/p/C0iVL57rbZY/?igsh=MXUycWE0d2w5c3dldA%3D%3D

https://open.spotify.com/episode/097RCJhQEf62STwpyKARyU?si=5IJiRKECQBG7lsYsHOftHw


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