賢者タイム*に多元論を考える
わたしはずーっと、
間違ったことを書いてきたんだろう。
特に一つ前のnoteに関しては、
これから何年、何十年か生きた後のわたしが読んで
ひどく赤面するくらい間違っていてほしい。
わたしは昔から「冷めた奴」だと言われてきた。
理由を一つに集約したら極論になっちゃうけど、
その一つとして、哲学書や、偉人の名言集を読むのが好きだったことも大きいと思う。
達観して世の中を見渡し、
嵐が吹き荒れるような時ほど彼らの教えを胸に灯し
静けさを保つ自分のこころを眺めるのが習慣だった。
動揺したくなる困難に出会った時
だれかが愛の言葉をくれた時
目標達成が目前に迫っている時
ふつうなら感極まってしまうような瞬間、
感情よりも先に、
"だれかの教え"、つまり"結論"が頭をよぎった。
まるで第三者の目線で
外から自分を俯瞰(ふかん)しているようだった。
上記を読んで、???が頭を占めたよって方は
これまでのnoteを読んでくれたひと。
いつもありがとうございます。
そう、最近のわたしは常に何かに怒っていたり、
嘆いていたり、激しい感情の波に抗うことなく
大海原をぷよぷよ浮いたり沈んだりしている。
その様がそのまま文章に映っている。はず。
というのも、
あるときそれまでの "達観した" 自分に
とてつもない危機感をおぼえたからだ。
自身の経験が伴わない言葉は
命が宿していない抜け殻にすぎない。
それなのにわたしは、
そんな抜け殻を自分の魂のように誇って
知らないうちに他者を軽視し、
なによりも、自分の感情を軽視していたのだった。
その心境の変化のキッカケは何なのよ?は、
後から記述するとして、
最近は「ジタバタと暴れている自分」を曝け出すことを躊躇わないようにしている。
そんな自分の文章は、次の日読むのでさえ恥ずかしい。
いわゆる"その場の感情"に身を任せて書いている。みんな嫌うよね、ソノバノカンジョー。
わたしも嫌い。
あまりに恥ずかしくて、下書きに戻してしまったりする。
けど、
「じゃああのnoteは本当の自分じゃなかったの?」
って言われたら、認めたくないけど、
本当の自分だし嘘のないリアルな言葉だ。
だから、恥ずかしいを押し殺してまたちゃんと元に戻すようにしてる。
突然ですが、最近ホットな女性のPMS論議。
これ↓
生理周期のある一定の期間になると、
「イライラする」「憂うつな気分になる」「やる気が出ない」「感情のコントロールが利かなくなる」などの精神的症状が現れるというもの。
もともとはフェミニズムの観点から、
多様性への理解とか、男女格差の改善を目的として
その知見が広まったらしいけど、
なんか巷では、
いつもの自分じゃないことの言い訳として語られていたり、イライラして当たり前!だって病気みたいなもんだもん!てな具合で、
自分のアイデンティティから
その時期の自分を隔離して捉える
みたいな考え方が一般的になってきてるような気がする。
その理論通りにいくと、
月の半分の不安定な自分は本当の自分ではない、
なんでも上手くいくとされてる躁の時期が
本当の自分だとして、
"本当のその人"がこの世に存在する期間はざっくり
人生の半分
ということになる。
…あのー、、、あまりにも悲しくない???
「感情の不安定の原因」がホルモンバランスの変化ってことは科学的根拠のある事実であって、
その認識が社会問題の改善に大きく貢献してることも事実であって、
そこを否定する気は更々ないけれど、
それを「本当の自分と認めない」という老若男女に対しては異議を申し立てようじゃないの。
い、異論は認めます🙇💦(怖い)
ここでさっきの、「ジタバタな自分」を大事にしようと思ったキッカケについて話そうと思う。
わたしは今年の6月にうつ病と診断された。
診断される前から、
極端な感情の浮き沈みや、人混みでのパニック障害に苦しんでいたわたしは、
その診断を受けたとき
絶望どころかホッとしていた。
わたしがずっと "おかしかった" のは、
わたしのせいじゃなくて病気のせいだったんだ!
本当の自分じゃなかったんだ!
一刻も早く人に伝えて誤解を晴らしたい。
定期的に人と会えなくなってしまったり、
連絡ができなくなってしまうことも、
全て病気のせいすることで正当化できた。
だけど、ふと思った。
鬱の自分は自分じゃないとしたら、
そのとき自分はどこにいるんだろう。
いつ治るかもわからないこの病気、
その間ずっと自分を認められないのなら
果てしなく続く"自分じゃない時間"は
ある意味で空白の時間になってしまう。
本番はいつくるんだ??
そう考えたら、すごく怖くなった。
少しずつでもいいから言い訳をやめて、
不安定な自分も自分だ!と認めて、
自分の命を生きないと。
本当の自分 と うつ病 を切り離して生き続けたら
人生の大半が予行演習じゃん。
いつか後悔すると思った。
うまく伝わるかわからないけど自分にとって
「人生の客観視」から脱却する大きなキッカケとなった。
PMS問題の例とうつ病の例を、
そのまま日常に当てはめてみる。
その場の感情に流されてる自分
怒りを抑えられない自分
極論に走ってしまう自分
そんな瞬間は誰しもにあるだろう。
しばらくすると賢者タイム*の自分が現れて、
もしくは偉人の考え方を急に思い出したりして、
ひどく恥ずかしくなって、
その事実を消したくなってしまう。
(※「達観・我に返る」の言い換え。下ネタではない。)
だけど、後から意見が180°変わったとて、
「あれはホルモンに惑わされてる嘘の自分です」って言って否定するのはなんか違うんじゃないかと思うのだ。
"美しく生きてる自分"以外を否定するのは、
あまりにも悲しいことではないだろうか。
ジタバタしてしまう自分がいるからこそ、
達観した自分が存在できる。
それを理解した上で、
「あの時の自分は間違っていたかもしれない」と反省するのと、
「あれは本当の自分ではない!」と自分を認めずにやり過ごすのでは、
大きな違いがあると感じる。
だからこそ、その瞬間瞬間の自分を偽りなくちゃんと遺すことは意味があることだとわたしは思う。
たとえ後から見返して間違っていたとしても、
その時はそれが正解、自分が生きた証だ。
醜い過程をすっ飛ばして、
出来上がった姿だけを見せるというのも、
それはそれでカッケーな、、
と思う反面、
誰かを救ったり勇気づけるのは
完璧な姿ではなく、みっともないほどに
もがいている姿なんじゃないかとも思う。
精神病も暗い過去も
敵と捉えて蓋をしてしまったらそれまでだけど、
あの人だって知らない苦しみや綻びを
わたしは知っているんだ。
泥沼で溺れながら吐いた言葉が
いつか誰かを助ける日がくるかもしれない。
って言って自分を肯定してあげたいだけなのかもしれないけど。でもそれも「わたしらしいからいいよ」って言いたい。言わせてください。
これからもたくさん間違っては、少ししてから
反省する無様な姿をお楽しみいただければなと。
結論!
世の中は多元的です!
美しさも醜さも全部自分です!
…ってありきたりなまとめで括るには
ここまで長文を読んでくれた方たちから
「時間返せバカヤロー!!」という
野次がとんできそうなので、
せっかくなら賢者の有益な言葉を用いて
この文章を締めようとおもう。
おいおい、結局偉人の言葉かよ!前談なんだったんだよ!って聞こえてきそうですけど、
イエイエ
だって今は賢者タイムの"自分"ですもの( ー̀֊ー́ )✧
厳密にいうと、二元論ではなくて
« 愛するとは »というテーマについて
この方は言及されてたんだけど、
二元論をすごく身近な形で組み込んでいて
とってもグサリだぁーーーと思ったので
こちらを丸々引用させてもらいます。
あ、あと、二元論について向き合うきっかけをくれただれかさん。笑
いつもほんとにありがとーう。
ということで劇のフィナーレ的なノリで皆さま、賢者と彼に大きな拍手をおねしゃす。
ではまた!\(^^)/
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