「哲学対話」に参加したはなし
「今度、テツガクタイワをやるんだけど、美欧さんもいかが?」
コロンビア大学院の友人、Kaoriさんから連絡をいただいた。
テツガク、タイワ。
哲学対話。
アリストテレスとか、ソクラテスとか、
何を隠そう、私は「なんちゃらテスさん」系のトピックが大の苦手なのだ。
たぶん、哲学専攻のひととは一生かかっても分かり合えないかもしれない。
大学院で、フィロソフィーがでてきただけでもう頭のなかがパニック。
そんな哲学の対話なんて、もう考えただけで取り残されるのが目に見える。
「せっかくのお誘いありがたいんですが、、、」ここまで打ちかけていた。
いや、まず哲学対話ってなんなんだろ。
一回手を止めてググってみる。さすが現代っ子、わからないことがあったらすぐググるのさ。
哲学者の思想を教えたり抽象的な問題について議論したりするのではなく、各人が一人で思索にふけるのでもない。 身近な問いから出発して、グループで一緒に問い、考え、話をしていくものである。
おおおお、完全に前者だと思い込んでいた。怖い怖い。
哲学対話の第一人者は 梶谷 真司さん という方らしい。
https://www.note.kanekoshobo.co.jp/n/n9d8879c8de7d
いろんなひとの本もでてる。
共に話すことを通して共同で思考を広げ、深めていくのが哲学対話である。
(引用元)
共通のトピックに対して、みんなで囲んで、話して、思考を広げること、らしい。
おおん、これなら参加できそうや。
「ぜひ!お願いします!!」
奇跡的に仕事のお休みの日に重なり、私はこの「哲学対話」の世界に飛び込んでみた。
えいやっ
哲学対話の8つのルール
1. 何をいってもいい
2. 人の言うことに対して否定的な態度をとらない
3. お互いに問いかけるようにする
4. 発言せず、ただ聞いているだけでもいい
5. 知識ではなく、自分の経験にそくして話す
6. 意見が変わってもいい
7. 話がまとまらなくてもいい
8. わからなくなってもいい
なんて、人に、世界に優しいルール。
現実世界も、こうであればいいのに。
否定もされない、何をいってもいい、だまっててもいい、わからなくなってもいい。とにかく、自由で安全な場なのだ。
この8つのルールさえ守れれば、あとは対話に身を任せるだけ。
問いかけ、経験、成人学習のヒントが散りばめられているとも感じた。
実際に参加してみて
さぁ、いざZoomに参加。
本来は円を囲んで、みんなと向き合いながら話すらしいのだけど、このご時世なのでオンラインバージョン。
でもそれがやっぱりオンラインのすごいところで、なんでもできちゃうしなんでも成り立っちゃうのが不思議。
kaoriさん以外ははじめましてだったのに、この8つのルールのおかげで心理的安全性が保たれていて、こちらも相手の発言を否定しないように言葉選びにも慎重になる。それでも、まとまってなくてもいいからぽつりぽつりとこぼれるように話すのも受け入れてもらえる。
「人はなぜ人と関わるのか?」
「死とはなにか?」
「人はなぜ他人と比べるのか?」
「価値観の違いを受け入れるとは?」
いろいろな「でっかい」テーマがあるなかで、今回多数決で決まったのが
「なぜ人は成長したいのか」
に決まった。
安全な場なので、録音もなし。メモもなし。
ここにももちろん他の人が話したことは割愛するけれど、あらゆるいろんな方向に膨らんでいったのが面白かった。
私は、「そもそも、人は本当に成長したいのか?成長するっていうのは社会や周りの圧力で成長させられているのではないか?」なんてちょっとひねくれた質問がぱっと浮かんだり。
看護のことにもつながっていって、病気でできなくなることが増えていってしまう患者さんの「成長を促す」難しさを振り返ってみたり。
はたまた、昔は人ととにかく比べるのが自分の成長の原動力だったのに、コロナの自主隔離中に成長意欲が大爆発して毎日ウェビナー受けまくっていたら、あれ、本当は成長の原動力に「他人」ってあんまり関係ないのかな、って自分の小さな成長に気づけたり。
そんな、いろんな気づきがあちこちに芽生えて、忘れてしまったものもあるんだけどそれはそれでよくて、この自由さと安全さが心地よく感じられた。
哲学対話から何がわかるのか
わからない。
結局、何もわからない。
なぜ人は成長したいのか、そんなもの、わかりっこない。
仮に別のテーマだったとしても、そこに「解」なんて存在しない。
そんな答えのない問いを、大人たちが真剣に考え、真剣に話し、真剣に聞く。
それだけの時間。
でも、そのなかに自分だけの発見があり、また新たな問いが見つかり、もやもやが生まれる。
答えばかり求められる社会。
わかりやすく説明する、相談する、報告する、
簡潔な言葉でわかりやすく答えられるひとが「良い社会人」で、だらだらととりとめもない文章を並べて話すひとが「ダメな社会人」とレッテルを貼られる現代で。
たまには、答えのない問いを、だらだら、ぽつりぽつりと話す時間を、
みんな心のどっかで欲しているんじゃないかと思う。
やっぱりみんな「良い社会人」だから、「うまくまとまっていないんですけど」「自分でもよくわからないんですけど」って枕詞を入れてしまうけれど、
それでも誰かが自分の話に真剣に耳を傾けてくれる時間って、
今の生活にあんまりないのかなっていう気付き。
答えのない問いを、語り合う。
そこに明確な「解」があったら、きっとこの哲学対話は成り立たないんだろうなぁ。
哲学対話、はまりそう。