声およびバンドのはなし
少し前の休日、街で買い物をしていたら、テレビ番組のインタビューを受けた。何を買いに来たのか、なぜその商品を選んだのか等の質問をされ、その映像はもちろん顔出しで放送された。
はじめインタビューを打診された時、本心では普通に断りたかった。けれど、女性ディレクターが映像撮影からインタビューまで全て一人で対応している姿を見たら、「このまま撮れ高がなければ夜遅くまで仕事が続くのだろう」とか「このあと映像を使って編集するのも大変だよな」とか、業界は違えど同じディレクターとしての苦労諸々を考えてしまい、つい依頼に応じてしまったのである。
インタビューされた時の自分はマスクをしていたし、平日夕方放送のニュース番組の一コマだったし、わたしの出演に誰かが気づくことはまずないだろう、いや気づいてほしくない。だから、番組に出ることを誰にも伝えずに当日を迎えた。
放送当日、それでもわたしは落ち着かない気分でいた。放送はまったく楽しみではない、むしろ恥ずかしさと緊張ばかり。どんな編集になったのか気になるから、観ないわけにはいかない。当該の番組がスタートするや否や、テレビをつけっぱなしにして仕事を再開する。集中できない。
結局、自分が夕飯を食べ始めるそのベストタイミングで、わたしがインタビューされた番組内コーナーが始まった。わたしのインタビューシーンもしっかり使われていた。映像のわたしは、他のインタビュイーの誰よりもボソボソ喋っていたし、「録音した自分の声を聞き返すと、思ったような声色じゃなくて驚く」みたいな感覚で、自分は自分が思っている以上にモサッとした雰囲気の声が低い人間なんだな、とおかしな気持ちになった。
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そんなことがあった日の週末、わたしは約10年振りに大学のサークルメンバーが集まる飲み会に参加した。そしてその場で、同期の女性がわたしを見てこう言った。
「そういえばメーコ、この前テレビに出てなかった?」
話を聞くと彼女はその日旅行中で、旅館の一室でテレビを観ていたそうだ。すると、画面にモソモソと喋る人物が。その人物の「声」を聴いて、あれ?これメーコじゃない?と思ったのだとか。
番組名も放送時間も、またその番組で出ていたお店のことも彼女は全て覚えていて、だから彼女が目撃した人物もわたしで間違いなかった。
まずわたしは、彼女の耳がすごくいいと思った。わたしたちはバンドサークルに所属していたから、彼女がたくさんの音楽を聴いてきた一人ということもあるけれど、それにしても耳で情報を判断できるの、シンプルにすごい。加えて、もしかしたら自分は人に何かしらの印象を与える可能性のある声なのかもしれないと思った。それは少し前にも感じていたことだ。
…というのも、少し前にとあるバンドのサポートライブをした時のこと。終演後、ライブハウスよりその日のライブ模様を収めたアーカイブ映像をいただいた。後日、自身のライブ模様を視聴すると、明らかに自分が独特の声色すぎて驚いた。普段自分の所属するバンドで活動している時は、さほど気にならなかったけれど、他のバンドに参加してみるとその異色ぶりは顕著である。けれど、当日集まってくれたお客さん、もとい出演者の方々は、それでも自分の演奏や歌をとても喜んでくれていた。それが不思議なような、嬉しいような、絶妙な気持ちになった。
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話はまた少し変わって…
現在わたしはSwitchで『ポケモン不思議のダンジョン 赤の救助隊』というゲームを少しずつプレイしている。これは、ある日突然ポケモンになってしまった主人公が、パートナーのポケモンと一緒に救助隊を結成し、さまざまな依頼をクリアしながら、世界の異変や主人公の謎を解いていくもの。
まだまだ序盤をプレイしているところなのだけど、ちょうど先日、ストーリーの中で「イジワルズ」という、不良救助隊グループが現れた。これはゲンガー・アーボ・チャーレムというポケモンからなるグループで、本来主人公たちが受けるべき”依頼”を横取りしてしまう。(依頼を達成すると、アイテムやお金をもらえる)
主人公のパートナーであるミズゴロウ(青ボディにオレンジとげとげの頬っぺの可愛いポケモン)は、当然その横取りに激昂する。しかし、イジワルズのゲンガーは平然とこう言うのだ。
「誰がやったって解決すりゃあいいじゃあねぇか!」
たしかにね、とわたしは思った。イジワルズはアイテムやお金が目的かもしれないけれど、そのために彼らが依頼を達成し、問題が解決されたなら、それはWin-Winである。つまり、ゲンガーの言う通り、依頼など「誰がやっても同じ」なのだ。
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しかし、話題は再びバンドに戻って―――バンド活動においては「誰がやっても同じ」は存在しないのかもしれない。バンドは人と人とが関わり合いながら、絶妙なバランスで成り立ち、進んでいくものだ。時にはメンバーが変わったり、脱退したり、解散したりすることもある。誰かが脱退し、新しいメンバーが入ったそのバンドは、以前のバンドと完全に同じではない。
わたしの所属するバンド「カタカナ」も、もともとは別メンバーで構成されていた。そこにわたしがベースとして加入し、やがてボーカルが脱退したためベースボーカルとなり、さらにギターもメンバーが入れ替わり、今に至る。どれも「カタカナ」というバンドではあったけれど、同じ状態の「カタカナ」は存在しない、全て別物だ。
だから、自分がベースボーカルになった時点で、カタカナは新体制としてイチから曲を作ることになった。アルバムに過去の曲を入れることもなかった。前体制のカタカナを好んでいた人もいたし、新体制になってから付き合いがなくなった人もいた。けれど、新体制になってから出会った人もたくさんいた。
誰かが脱退し、別の誰かが加入する。それによってバンドの形は維持され、活動もできる。”バンドの形の維持、および活動の継続”が目的なのだとしたら、それは「誰がやっても同じ」だろう。とにかく誰かがバンドに入ればいいのだ。
しかし、そのような代替わりが発生し、形を維持し続けたとして、同じ感動を再現することはまず難しいだろう。同じ言葉とメロディを、同じ観客に届けたとて、言葉の重さもメロディの美しさも違うはずだ。かつてそのバンドから発信された音楽に心が震えた人がいるならば、それは当時活動していた全メンバーから生まれた音楽によるものだ。これは「誰がやっても同じ」にはならない。
バンドの形を維持することが、誰かの心を置き去りにする可能性というのは常にある。そして置き去りにする相手は、観客のみに限定されるものではない。
音楽とは一体”誰のもの”なのだろうか。