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誰もが誰かの大葉、パクチー、花椒

ほとんどすべての人に、好き嫌いがある。
たとえば食べ物の好き嫌い。大葉やパクチー、花椒といった食べ物が嫌いな人がいたとする。これらの食べ物は香りが強く、料理に触れている部分にまでその香りが移ってしまう。つまり、大葉やパクチーそのものを咀嚼しなくても、それらの触れた部分(料理)を口にさえすれば、それらの”存在”を感じてしまうことになる。すり潰さなくても、刻まなくても、そこに”いる”だけで存在を醸してしまう。これらの食べ物が苦手な人にとってそれは、たまったものではないだろう。

そしてこれはきっと、人間関係でも同じ。
Aという人間が苦手な人にとっては、Aと直接言葉を交わさなくても、Aがいた形跡がある、Aが関わった成果物があるなど、Aの存在を知覚するだけで、どことなくスッキリとしない嫌な感じを覚えるのではないだろうか。

ここ最近、自分を苦手とする人間が存在することを思い出させる機会が何度かあり、こんなことを考えていた。ありがたいことに、これまで好意的な人々と接する機会が多かったため、誰しもに好き嫌いがある事実を忘れていた。遠回しな嫌味や、数名が集まるコミュニティ内でのなかなか露骨な「スルー」などを受け、昔もこういうことがあったなあ、こういうことの積み重ねばかりだったなあと、薄暗い懐かしささえ覚えた。

ただ個人的に思うのは、自分が嫌われる側でまだ良かったのかもしれないということ。たとえばチームで仕事をしていて、その中で誰かが意地悪をされている、一方わたしは(意地悪をする人物から)可愛がられている…といった事象が起こっていたとしたら、そちらの方がもっと息苦しくて精神的にきついと思う。
意地悪されるのはもちろん傷つくし、気持ちも落ちる。だけど、考え方いかんによってはかなり面白い。意地悪発言の背景にあるシンプルで幼い悪意は滑稽だし、そんな相手をギョッとさせる切り替えしを考え、実行した時に起こる現場の空気やリアクションを妄想するのは大変愉快である。

誰もが相手にとっての大葉、パクチー、花椒になり得る可能性があることを踏まえて、これからも普通に生きていきたい。

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