あたらしくする
最近、カードケースを買った。用途は、交通系ICカードを入れるため。つるつるとしたブラウンのクリア素材に、レトロなツバメノートのデザインがあしらわれたものだ。文房具屋で売っていたもので、価格は1000円にも満たない。
それまでわたしは、友人から誕生日プレゼントとしてもらったカードケースを使っていた。その友人とはライブだって、美術展だって、飲み会だって、何だって一緒に出かけたし、お互いの誕生日にプレゼントも贈り合う仲だった。わたしは彼女が大好きで、お婆ちゃんになっても一緒に買い物やお茶をする仲でいたいと思っていた。
しかし、そんな友人とは2年ほど前に友人関係が終わってしまったようだ。恐らくは連絡先を拒否されているので、コンタクトを取ることもできない。
当たり前のことだけれど、人はみな自分の物差しを持っている。どんなに信頼し合い、分かり合えている関係だとしても、みな少しずつ違うのだ。物差しの「違い」は歪を生むこともあるし、逆にピッタリと合えば、相手との関係をとても心地よく感じるだろう。わたしは、自分と友人の物差しがほとんど同じだと思っていた。たしかに物差しの”素材”は違うけれど、見た目や長さは自分とそっくりで、こんなにピッタリくる人がこの世にいるなんて、と思っていた。
しかし似ていたのは見た目だけであり、本当のところは似ても似つかぬ物差しのようであった。ある出来事を境に、彼女と連絡が取れなくなったのだ。わたしにとって取るに足らない出来事が、友人にとっても同じような価値のトピックだとは限らない。つまりは、そういった積み重ねが、わたしと彼女との細かな溝を生み続けていたのだと、あとになって気づいた。
だからといって、これはどちらが悪いといった話ではない。この人生で何に価値を感じているのか、何を優先し、選び取り、どのように生きていくか。それは人それぞれ、100人100通りだ。わたしは紆余曲折する生活の中で、ときに友人から助言を得ながらも、自分自身の人生を選び進んできた。しかしその結果、友人はわたしと「友達でいること」を手放すことにしたのだ。
彼女と連絡が取れなくなり、はじめの1年はあれこれと考え苦しんだ。けれど、何度考えてもわたしはわたしが悪いとは思わないし、彼女が悪いとも思えない。結局最後は、わたしたちが別々の人間だったのだという結論にたどりつく。もう一種の諦めである。
もちろん、残念だし悲しい。でも繰り返しにはなるが、これはどちらかが謝るようなことでもない。それぞれが、別々の道を選び歩んでいくことにした。そこで「さようなら」が言えなかっただけだ。
そんな友人にもらったカードケースを使っていた。
電車に乗るとき、バスに乗るとき、ケースを取り出しては、わたしはいつも友人のことを思い出す。そしてそんな自分が、少しだけ未練がましい人間のように思えた。
だから、どこかへ出かけるたびに、わたしは気に入るケースがないか物色した。気に入ったものがあったとして、実際に購入するかは別の話だったけれど、幸か不幸か、気に入るケースはなかなか見つからなかった。
ところが、つい先日立ち寄った文房具屋で、件のカードケースを発見したのである。ものすごく気に入った、というわけではない。でも、派手すぎず、地味すぎないそれは、今まで見てきたカードケースの中で一番しっくりきた。
今、わたしはこの新しいカードケースがとても気に入っている。電車やバスに乗るとき、ちょっとだけ清々しい気持ちでいられるからだ。