読書感想 「邪魔しないで」の真意
今日は平日休み三連休の最終日。
人生でこんなことはきっともう訪れないであろう、一人ぼっちの三連休。
(誰かにはさすがに会っているだろうというツッコミ)
(子どもが巣立つと一人ぼっちの時間はありそうだというツッコミ)
昨日は心が動いたことがあった。
私が平日仕事があれば、パートナーがじじばばの家へ子どもたちを送りに行き、子どもたちはじじばばの家から学校や保育園へ。
学校や保育園が終われば、またじじばばの家へ戻って、仕事帰りに私が迎えに行くというのが平日の基本的なリズム。
私が平日休みのときも、あまりリズムを崩したくないので、子どもたちには同じような行動をしてもらっている。
いやいやお前の自由な時間を増やしたいだけだろというツッコミ(3回目)は置いておいて、この3連休もそのような時間の使い方になると思っていた。
しかし、末っ子が「送りと迎え、お願い」と。
あらあら。送りは支障ないのだが、迎えは早くになるので、自由時間が減るではないか。
(いやいや、平日休みなら保育園に行かないで、お家で過ごせよ)
送りと迎えを私と一緒にやっていると、末っ子から、、、
「昨日はありがとね」
と。
どういう意味かというと、「送りと迎えしてくれてありがとね」ということ。
親として当然に思っていた行動が、
子どもからそんな言葉が。
きっと、
「(本当は自由な時間を過ごしたいはずなのに)、送りと迎えをしてくれてありがとね」
と言いたかったのだろう。
こんなことを思わせるダメ親ですみません。
これからたくさん愛情を注いでいくから。
嫌がらないで受け取ってね。
さて、今日の本題も子育ての話から少し波及しそうである。
読書感想をしていく。
書籍は、「子育ての引き算 モンテッソーリ教師あきえ著」である。
私の毎日のルーティンの一つである、voicyでの学びをくださるパーソナリティさんです。
そのあきえさんが書いた書籍を読ませていただいた。
まだ3章あたりだが、思ったこと、感じたことがあったので書き記していく。
まず、感想の結論から。
「教えてあげないとできないから教えるんだ。この考え方には落とし穴がある。子どもが自ら育つ邪魔をする可能性である。邪魔をしない、いや教えてあげなきゃ。どちらの行動を取るべきかは、相手のニーズ次第。基本スタンスは「邪魔しない」である。」
私が子育て(いや人生といっても良いかも)で大事にしている考え方である
「邪魔をしない」
本書にも触れられている。
いやー大変読みやすいです。あきえさんは、言葉の定義から丁寧にされているので、こういう意味で言っているんだなというのが想像しやすい。
話を戻します。
要するに、「どうせ〜」「⚪︎歳だから〜」と見てもいないのに決めつけると、小さな成長の邪魔をしますよ〜ということ。
違う話から。
私のルーティンのvoicyでよく聞くキンコン西野さんが、
「筋トレやボーリングの仕方を勝手に教えてくるじじい、本当に困る」
と言っていた(語弊があったらすんまへん)
こっちは
ゴリゴリマッチョになりたくないの!
健康のための運動の一環でやってるの!
別にボーリング上手くなりたくないの!
友達と和気藹々とやってるだけだから!
求めていないのに、邪魔してくるな!!と声を大にして話していた。(ギャグだと思うが)
私も思うことがある。
私は勝手に勉強するから、
「こうした方がいいよ」
「こっちに来い!(人事権を行使される)」
本当にやめてほしい。
邪魔しないで欲しいと切に願う。
でも「自分のことは自分が一番分かっていない(見えていない)」とよく言ったものだ。
だから、求めていないけど、教えてあげる親切が横行してしまうのだと思う。
そのため、
「牛乳入れるとき、入れてあげるよ」と勝手にまだ2歳だからといって先入観をもって我が子を見て、手出し口出ししてくる親
「筋トレするときには、筋肥大させるために、、、」と親切心で教えてくるゴリゴリマッチョのおっちゃん
「お前の得意分野はそっちじゃない!こっちに来るんだ」と勝手に人事を決めちゃうお偉いさん
が出てくるのだ。
上記の方々も、その方々の正義があって行っている行動なので、もちろん全否定はできないし、する気もない。
でも、その親切が「邪魔しているのかも」と思うことも必要だ。
求めたときに手を差し伸べる。手助けする。
私はより多くの人が自立・自律した生活を送る世界を願いたい。
もちろん、まだ私も足りないことだらけだから、日々精進していきます。
求めてきたときに手を差し伸べる。手助けする。
この世界もドライっちゃドライ。
だって、声かけにくい人もいるだろうから。
だから、まず観察。必要そうであれば、声をかけよう。
「どうしましたか?私に手伝えることはありますか?」
「Can I help you?」