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「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見て思いだすアレコレ
先に言っておくと、私は三島ファンではない。
三島由紀夫の存在そのものは好きだし、とても惹かれるのだが、三島の作品にすごく思い入れがある、と言うようなファンではない。
どちらかと言うと、好きなのは60年代~70年代の学生運動だ。
私は、1970年生まれ。
私の生まれた年は激動で、このようなあらぶった学生運動やベトナム戦争反対運動がある一方で、大阪万博のような世界的にも華やかなイベントがあったりする。
物心ついたころから、当時はどんな世界だったのだろうと良く思いをはせていた。
特に、学生運動や全共闘については、何にそんなに怒っていたのか、何と戦っているのか、不思議に思うところから、あさま山荘事件や連合赤軍の人がいまだ海外逃亡していることとか、けっこう興味を持って映画や書籍に触れてきた。
当時10代の私からすると、ほんの10数年前のことなのに、人が死ぬほどの抗議とか、火炎瓶投げるとか、警察や自衛隊ともみあいになって逮捕されるとか、自分の生活からはとてもかけ離れすぎて想像がつかなかったからだ。
そして先日、Amazonプライムで表題の映画が無料で見られるようになっていて、思わず食いついた。
東大全共闘と三島由紀夫、相容れないであろう思想を持った両者がどんな話をしたのか。
久しぶりに、学生運動や60年代70年代の運動家、思想家たちの熱量に触れて、心が波だった。
学生運動に特別詳しいわけではないので、歴史的背景などには言及しないし、できるはずもない(ほぼ引用)が、ずっと抱いてきた個人的な思いを書き留めておきたくなった。
早稲田大学に入学
そんな学生運動にうっすら興味を持っていた私は、たまたま早稲田大学に入ってしまった。
当時、早稲田のキャンパスには、まだ学生運動の香りが残っていた。
正門には「ヘルメット・角棒持ち込み禁止」みたいな看板もあったし、民青や自治会という政治的意味合いの強い団体も普通に活動していた。
キャンパスには、そういう学生団体が作った立て看板というメッセージ性の強い内容の看板もたくさんあったし、「アジる」と言う、扇動・運動・論議といった意味の英語「アジテーション」から派生した言葉も、学生運動の頃によく使われていたものらしいが、それをあえて使う、みたいな風潮もあった。
そうそう、アジアンカンフージェネレーションのことを略して「アジカン」と呼ぶけど、私の中ではアジカンって聞くと、アジる+立て看と連想してしまうんだよね。笑
まあ、そういうもの全部が当時18歳で大学に入った私には本当に新鮮で、右も左も右翼も左翼も理解していなかった子どもには、何だかすごい!でしかなかった。
と言うのも、自分個体の主義主張がならともかく、国家や政治、あるいは学校に対して、こんなにも強い思いや主張をするという熱量は生まれて初めて感じるものだったからだ。
いい意味で個人主義~親ともあまり関わらず、自分でなんでもやっている!と勘違いしていたその頃の私は、大学でこうした全体主義的な考え方に触れて、社会や世の中全体を見る、と言うことを意識するきっかけにはなったのだ。
とはいえ、当時の学生たちが実際に国家や政治に対して何か行動していたかと言うと、60年代の比ではないだろうことも分かる。
しかし私個人としては、ずっと過去のこととして興味を持ってきただけの学生運動が、まだ息をしていることを感じ、その空間を味わえることにはテンションが上がったし、自分も何か主張を持てるようになりたいという憧れももっていたのである。
学生自治会、革マル派、民青、そんな言葉を初めて聞いて、自分が何も知らないことを自覚した。
うちの両親は、学生運動の頃、おそらく同じぐらいの年齢だったはずなのだが、そういった社会問題や思想、哲学には興味がなかったと思われ、そういった話は聞いたことはなかったし、学校でも教えてはくれなかった。
右寄りの考え、左寄りの考え、とかそんなことも分からなかったし、考えたこともなかったのだ。
しかも、私は民青に近いとされる学生生協の委員をやることになったため、割合、そういう思想や哲学を語る人に多く出会い、ものすごくたくさんのことを教えてもらったと思う。
それは、哲学や思想そのものと言うより、そういうものの考え方、主張を持つことの強さ、みたいなことである。
社会の仕組みやあり方に自分なりの理想を抱き、思想を持つ、そういう人たちに触れて、いろんな刺激をもらったのは言うまでもない。
とはいえ、私の中にそうした思想や、社会に対する理想は生まれはしなかったのだが。なんせ当時の私は、まだ若すぎて自分の幸せや自己実現の方が大事だったんだよね。
そして、私が大人だなあ、なんかすごいなあと思っていた大学の先輩たちも今思えば、そこまで成熟した思想ではなかったと思う。
でも、それは当たり前だし、やっぱりそこは20代の若者でしかない側面がある。たとえそうだとしても当時、私が受けた刺激や恩恵を考えたら、大学には本当に行かせてもらってよかった。
早稲田に行けてよかった。
本当にそう思う。
杉並のカフェで
大学卒業後、テレビ番組制作の世界に入り、17年間仕事をして退職。
40歳から東京の杉並で、アーユルヴェーダのサロンを始めた。
大学生の頃からずっと時間に追われた生活をしていたので、時間に余裕ができ、生活を楽しむことができるようになった。
杉並が好きでずっと住んでいたにもかかわらず近所のことは良く知らなかったので、仕事を辞めてから近所を探索したり、好きなカフェでお茶したりするのが日常に。
あのおばあちゃんと出会ったのは、そんなある日のことである。
その日は、朝ごはんを食べようと朝からドトールへ。
杉並は昔から住んでいる年配の方々も多く、カフェが山ほどあった。チェーン店も個人店もあり、10店舗ぐらいひしめき合ってるにも関わらず、それなりに日中も客がいる。
朝のドトールもけっこう人が多いのだ。
テーブル席は埋まっていたので、入り口近くの壁沿いの一人用席に座って、モーニングを食べていると、隣のおばあちゃんに話しかけられた。
おばあちゃんは「一人暮らしでご飯作るのも面倒だから昨日も2回もドトールで食べた」と言って、私も「一人暮らしだとそうなりますよねー」とか、そんな話から始まった。
聞けば、すぐ近くに住んでいるという。
だが、登録している住所と実際に住んでいる場所は違うというのだ。
その理由が、「今も公安にマークされてるから」!!!
実はおばあちゃん、私がなぜか心ひかれる学生運動の当事者だったのだ。
噂には聞くが本当に公安に?!
最初は話半分で聞いていたが、徐々にこれはかなり真実味があると思い、私は前のめりで話を聞いた。
しかも、おばあちゃんは早稲田出身だったのだ。
「え!私もですー!!先輩ですね!!」とテンションアップ。
話は3時間近くに及んだ。
おばあちゃんの話
おばあちゃんは元々、京都のいいとこのお嬢さんだったらしい。
なので、親から進学には反対されたらしいのだが、それを説得し、大学進学と東京での一人暮らしを許してもらった。
当然ながら、親からの仕送りでの生活。
考えると、1960年代の大学進学率は10%ほど。
その時代に女性が大学進学、ましてや東京で一人暮らしをする、と言うのはかなりのマイノリティ。それだけで、彼女がどれほど前衛的で先進的だったかはわかる。
そんな彼女は、東京で学生運動に巻き込まれていく。
最初は運動に積極的に参加していたそうだが、だんだん軸がずれていくのを感じ取り、さらに親に対する罪悪感(勉強しに東京に来たのに何をしてるのかと)から、徐々に冷静に。
実際、当時の学生運動はニュースで見聞きしたようにかなり激しかったらしく、おばあちゃんも仲間が死んだり捕まったりしたのを見たし、そんなのは日常だったと言っていた。
だからこそおばあちゃんは、こんなことで死んだら親に申し訳が立たない、と思ったそうだ。
娘のためにお金を作って、大学に行かせてくれた両親を思い、おばあちゃんは決断する。
明日の闘争に参加すれば死は覚悟しなければならない、と言う闘いの前日、「明日は行かない」と決めたらしい。
そして、それが最後だったという。
私は話を聞きながらドキドキしてた。
あの映像で見る闘争の中にいた人から直接話を聞けて興奮した。
私はずっと、ああいったムーブメント、大きな感情のうねりは人を巻き込むが、最終的にそれを扇動するトップの者たちの意図や狙い(自己保身や利益も含む)によって動くので、学生運動自体は本来目指した形と違う形になっていったのではないかと感じていたのだが、おばあちゃんの話から、それはあながち間違ってないかもと感じさせられた。
おばあちゃんは、当時の自分たちの行動や思想については、今思えば幼稚だったと言っていたのも印象的。
ただし、私の大学生時代の経験と同じで、幼稚だったとしても、それは必要なステップだったと思う。
若い、と言うことはそういうことなのだ。
アウシュヴィッツに行ったおばあちゃん
学生運動には関係ないが、私がおばあちゃんの話を信じたのは、その先の話を聞いたから。
学生運動には見切りをつけたおばあちゃんだが、やはり強い思想の持主なので、どうしても見たかったものがあったそうだ。
それが、アウシュヴィッツ。
言わずと知れた、ナチスドイツが人種差別により多くのユダヤ人や、ナチスドイツに反する者たちを収容、多くの犠牲者を生んだ悪名高き収容所である。
当時は情報が少なく、アウシュヴィッツに行く方法さえ分からなかったが、とりあえず近くまで行き、現地のバーやレストランで知り合った人に情報をもらいながら移動する、と言う旅だったそうだ。
その中で偶然にも、日本人の大学教授か何かに出会ったことで、当時は誰でも入れるわけではなかったその地域へ入れるよう、紹介状を書いてもらえたらしい。
それで、ようやく目的の場所へとたどり着いたという。
すごいアナログな旅だが、人の縁がすべてという事実をあからさまに示していて、私は感動した。
おばあちゃんは実際に行ってみて、アウシュヴィッツのことをもっと世の中に伝えなければならない!とより強く思ったそう。
それで結婚した後も、またアウシュヴィッツに行き、計3回ほど取材したと話していた。
熱い!!マジで熱い!!!
私はやっぱり早稲女はちがう!!すごい!!!
とめちゃくちゃ感激して、刺激を受けた。こういうカッコいい生き方したいなあと思った。
私はすっかりおばあちゃんに気に入られ、朝ごはんから午前中をずっとおしゃべりに費やしたが話が尽きず、おばあちゃんに誘われてランチを食べに行きごちそうになって、そこでもずっと4~5時間は話したのだった。
おばあちゃんは、自分と同じような思いで仕事をしていると思われる、若いカメラマンの個展に招待されたとメッセージ入りの招待状を見せてくれた。
彼のメッセージには、おばあちゃんに対する敬意が感じられた。
あとあと、その時見たおばあちゃんの名前を検索したら、とある抗議運動の名前に名を連ねているの見つけた。
ああ、年をとっても思想は変わらないのだなと、そのカッコよさにしびれた記憶がある。
彼女の生きる軸は一貫している。
公安にマークされててもおかしくないわけだ。笑
三島と全共闘の背景
ようやく表題の映画の話になる。
この映画は、かの有名な「東大安田講堂事件」のあとの話。
1969年1月に起きた安田講堂事件は、Wikipediaの言葉を借りて説明すると
東大安田講堂事件(とうだいやすだこうどうじけん)は、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年(昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。
実は、私も勘違いしていたが、この時たてこもった学生は東大生だけではなかった。Wikipediaによれば、検挙されたほとんどは他大学の学生だったらしい。
そして、この安田講堂事件が鎮圧されたのを境に、学生運動は盛り上がりに欠けていったと言われている。
そう考えると、この討論会が行われた1969年5月は、全共闘の求心力はピークを越えていたのかもしれない。
ちなみに全共闘とは、「全学共闘会議」のこと。
1968年~の学生運動が武力闘争へと変わっていたころに、各大学ごとに結成され、かつ派閥を超えた連合体としての組織だったらしい。
各大学ごとに目的や方針も異なったようなので、武力闘争に伴う熱気が生んだ集団と言えるのかも知れない。
その中で「東大全共闘」は「大学解体」「自己否定」といった主張を掲げ「実力闘争」を前面に出し、マスコミでも特別に報道されて有名だったという。
彼らの立場は、いわば革新・革命派。左寄りということになる。
一方、三島由紀夫は、この1年半後ぐらいに自衛隊市谷駐屯地で自衛隊に憲法改正のためのクーデターを呼びかけるも失敗し、割腹自殺するという衝撃的な最期を遂げる。
私が生まれた直後、1970年11月のことだ。
三島は天皇を敬う保守派であり、いわゆる右寄りの思想。
「自衛隊をアメリカから天皇に返す」と言う思いがあったが、その思いは届かず自ら命を絶ったのわけである。
保守派と革新派の討論
この貴重な記録映画は、天皇を重んじる保守派の三島と、革新派の全共闘の意見交換というものだ。
予告などでは激しいと煽られているが、ディベートとしてはそれほど深くはないと感じた。
学生たちは主張を三島にぶつけるものの、それに丁寧に答える三島の文脈をくむことなく、自分の立場からの意見ばかりをいって何だか話が平行線になっているからだ。
全共闘側の主張は正直良く分からない。実存とか空間とか、哲学的な話が多くて分かりにくく、まさに三島の言葉の通りだった。
「私は諸君の熱情は信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい。」
そう、彼らには確かに熱意があった。
この映像を見ても、学生たちが何を主張し武力闘争まで行うのかは分からなかったが、ヒリヒリした熱さがあったことは感じる。
いや、むしろ熱意しかなかったのかも知れない。
まさに、熱に浮かされる、と言うような時代のうねり、ムーブメントだったのかなあと思うのだ。
一方で、この討論を論評している記事や、この先の三島の行動を考えると、三島は、保守と革新と言うまったく違う立場の学生たちに、共感もあったのかも知れないと思う。
現在の政治や国家に不満を覚え、批判し、ぶっ壊そうとするのが学生運動なら、三島自身も成し遂げたい天皇中心の国家を再建するために「現在の社会」を壊すことは必要だったはずだからだ。
両者は、現状を変えたい、と言う点で一致していたのである。
だからこそ、若く強引な意見展開をする学生たちに真摯に答え、ある面では自分の天皇への気持ちや思想を赤裸々に語って、まっすぐに向き合ったのかも知れない。
映像を見ていると、三島はすごく優しい表情で、どんな質問にも明確に真面目に答えている。学生たちを非難したり批判したりすることはないのだ。
それ故に、学生たちの言葉には未熟さや幼さを感じてしまう。
なんというかレベルが違う、と言うような感じ。
私は、学生運動の時代の学生たちは、私たちとは異なり、特別に頭が良く大人たちに並んで議論していたのかと思っていた。
だが、そうではなかったんだなと感じたのだ。
この映像の中には、20代の若者らしい、良くも悪くもまっすぐなだけの自己主張がある。
彼らなりの思想や主張は熱く強かったが、その内容は、やはり20代の学生レベルのものだったのではないだろうか。
結局、三島の思いは学生たちには響かず、国家を壊したい学生と作り直したい三島が共闘するには至らなかった。
この映画を見た後、心に残るのは、両者ともに自分の主義や思想を心から信じ、そして理想を掲げ行動する…あの時代だからこそあった独特の熱量である。
こういう熱狂は人を魅了するのだ。
思想よりも簡単に人を動かすだろう。
当時の人たちも、こうした熱狂に酔っていたのかもしれない。
私が闘争に興味を持つ理由
最後に、私が大好きなインドの伝統医学アーユルヴェーダの話を持ち出す。
冒頭、私は「何か分からないけど学生運動にひかれる」と書いた。
実は、これにはちゃんと理由がある。
私の体質は、アーユルヴェーダで見ると火のエネルギーと水のエネルギーが多いタイプ。
火のエネルギーはイメージする通り、熱い気持ちが強く、猪突猛進で自分の理想や目的を達成しようとする完璧主義者でもある。だからこそプライドが高く、目的のためなら手段を問わない。
そう、学生運動や三島由紀夫には、その片鱗がうかがえる。
私には彼らのような明確な主義や思想はないが、火のエネルギーが多いゆえに、彼らの熱意や目的を達成しようとする姿勢に共感し、惹かれるのだと思う。
しかも火のエネルギーの人は、議論や討論が好きだ。闘うのが好きだ。
私が60年代に若者だったら、間違いなくどちらかの闘争に加わっていただろう。
ドトール出会ったおばあちゃんと共に闘っていたかもしれない。
だって、その熱狂に酔って仲間と闘うなんてロマンはなかなか味わえるものではない。
もしその時代にいたら、私は絶対にやっていたと断言できる。
そう考えると、生まれるのが遅くて良かった。
おかげで警察にお世話になることも、人を傷つけることも、公安にマークされることもなく生きてこれたのだ。
そんなことを思ったら、なんかおかしくなってニヤリとしてしまった。
ちょっと残念だけど、本当に生まれるのが遅くて良かった。
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