見出し画像

アラサーの自己探求 -素とはなにか-

※アラサー社畜が自己探求をした内容を自分用の覚書/整理用に書き出した、ただの長文のつぶやきです
※行動心理学とかそのあたりの専門的知識はさっぱりわからない素人の見解です

※筆者自身がこのnoteを教えている知り合い以外で、(自分の知っている人のことか?)と思った方へ、相手方へ問うのはやめてください。
九割九部人違いですし、よしんば合っていたとしても、これはただのつぶやきです。
野暮や無粋なことはなさらぬように、お願いいたします。


はじめに

人間は自然のなかでもっとも弱い一茎ひとくきの葦にすぎない。
だが、それは考える葦である
『パンセ』(前田陽一・由木康訳・中公文庫/田辺保訳・角川文庫/松浪信三郎訳・講談社文庫)より引用

私はこの言葉がとても刺さったタイプの人間です。
アラサーともなると、いつ/どこで/誰から/どんな状況で聞いたのか、その辺りはさっぱり記憶にありませんが、今でも私の価値観や考え方として根付いています。

「考えられる頭脳を持っていて、それを表現できる知性もあるのに、使わないのは勿体無い」

本記事は、そんなことを考えているアラサーが1人遊びがてら考えた自己探求の備考録であり整理用のつぶやきです。
理解も納得も、求めてはおりません。
だって、これは1人遊びですから。

そんな1人遊び、今回は論文風(あくまで風です)につぶやいていこうと思います。


0.人間の素とはなにか

見出し通りの切り口から、本つぶやきを始めることとする。

〘名〙
・かざりけのないこと。いつわりのないこと。また、素直なこと。
・もって生まれたもの。本質的なもの。どだい。したじ。たち。

〘名〙

・他の要素がつけ加わらない、ありのままのさまをいう。そのままであること。
コトバンク:精選版 日本国語大辞典 より一部抜粋

上記引用の通り、「素」には「飾り気のないこと、素直なこと」「本質的なもの」「ありのままのさま」という意味がある。
つまり、「人間の素」とは「個人がもつありのままの本質的なもの、素直な言動」と言い換えられるのではないだろうか。

では、その素を構成する要素、そしてその要素から生まれる特性とは何か。

この疑問への一つの答えとして、筆者は「その個人における理性的な面と感情的な面が素を構成する要素であり、それらのバランスによって個人の特性の違いを生んでいる」という結論に至った。


1.理性と感情の解釈

1-1.個人の特性

個人の特性を表す言葉として、「理性的な人」「感情的な人」という風に称することはよくあることのように思う。
例えば、類人猿診断では、診断内容から4種類の類人猿に分類し、それぞれに応じた特性の診断を行っているが、大まかには「理性型」か「感情型」かの2種類に分けられている。
(以前にこの診断を行ったが、非常に興味深かったため、ぜひともおすすめしたい。)

理性の対義語が感情であるように、理性と感情は相対する要素として語られがちであるが、どちらかの要素しか持っていない人間はいないのではないだろうか。

1-2.理性とは

人間は生物の中でも「考える」ことに特化して進化し、生き延びてきた生物だということは、地球の長い歴史から考えても明らかであることは、既に語り尽くされている。
生物として弱くとも、考え、知恵を巡らせることによって、地球上の強者としてその地位を築き、発展を重ねてきた。
理性とは考える、思考することであり、非常に人間らしい行動だともいえるだろう。

そして、「考える」という行為そのものがとても「理性的」なものである以上、脳機能に何かしらの重大な影響を受けていない限り、「理性を全く持たない人間」は存在しないと筆者は考えている。

1-3.感情とは

では、逆に「感情」はどうだろうか。
こちらは哺乳類という括りで考えると、やはり感情を全く持ち得ない生物はいない、と思われる。

なぜならば、「感情」は、呼吸や睡眠と同じく「生理現象」として、生まれた時から持っている要素だからだ。
生まれた時から、あるいは、その後の成長過程によって、感情の発露が苦手であったり、薄い人間の存在は否定しないものの、人間誰しもが生まれながらにして「感情という生理現象を持っている」と考えてよいだろう。


2.理性と感情の比較

先述した理性と感情、それぞれの解釈をまとめると、以下のようになる。

  • 理性=考える行為であり、進化/成長の過程で得る機能

  • 感情=生まれた時から持っている、本能的な生理現象

このまとめから理性と感情を比較すると、現代社会において、人間は生まれながらにどちらの要素も持っているものの、それぞれの要素が発現するタイミングが異なると考えられる。

基本的には、生まれながらにして発現する確率が高いのが「感情」で、生まれてから成長する過程を通して発現する確率が高いのが「理性」と考えてよいだろう。
特に理性は成長とともに発現する機能である点から、人間社会に適応するために脳の成長と共に発現するより高度な機能ともいえる。

基本的/確率が高い、と付け足したのは、要素自体は持っているものの、何かしらの要因によって、どちらかあるいは両方の要素が発現しない、もしくは発現しなくなる可能性を、人間誰しもが抱えているからだ。
ただ、この可能性については、センシティブな話になってしまう点と、今回本筋からズレてしまう点を鑑みて、これ以上の考察は避けようと思う。

可能性の話をしだしたらきりがないですしね。


3.理性と感情が持つ矛盾

3-1.特性の違いを考える

ここまでは、本つぶやきの本題、タイトルにも記載した理性と感情のバランスを考察するための下準備となる内容をつぶやいてきた。
ここからは、それぞれの要素のバランスによって個人の持つ特性に違いが生まれる、という点についてつぶやいていきたい。

3-2.相対する要素を持つという矛盾

そもそも理性と感情という相対する要素を生まれながらにして持っている時点で人間は矛盾を抱えてうまれてくる、といって過言ではないだろう。
さらに、それらの要素は成長過程によって発現するタイミングやバランスが異なるのだから、多種多様な個人の特性、要するに個性が生まれて然るべきだといえる。

そして、その矛盾に多かれ少なかれ悩みを抱える時期というものが人間にはある。

それがいわゆる「思春期」と呼ばれる期間だ。

3-3.思春期とは

思春期も長きにわたって研究されており、ある種、語り尽くされている内容だといえるだろう。
那須教育事務所ふれあい学習課による、思春期に対する見解を一部抜粋して引用したいと思う。

思春期は11才前後から始まり、18才頃まで続くと言われいます。
心も身体も大人ではないが全く子どもでもない(思春期初期)から始まり、次いで大人と子どもが入り交じりせめぎ あう状態(思春期中)期)、そして最後には心も身体も大人であることを確かなものとしていく状態(思春期後期)の3つの段階に分けることができます。

身体の成長に心の成長が追いつかず、だれもが不安定な気分になりやすい時期です。
また、「私は何なのか」「私はどう生きたらいいのか」などと自分に直面し、自分を見る 「もう1人の自分」が意識されるようになるため、心が大きく揺れ動くことが多くなります。
思春期とは、こんな時期です! 」那須教育事務所ふれあい学習課
より一部抜粋

『思春期は11才前後から始まり、18才頃まで続くと言われています。』
上記内容からは、一般的、マジョリティの視点から類推した場合に、多くの人間は18歳ごろまでに思春期を終えるもの、として認識されていることがわかる。

『身体の成長に心の成長が追いつかず、だれもが不安定な気分になりやすい時期です。』
上記点が先述した、矛盾に気が付きバランスが崩れて不安定になることを指している。
つまり、感情のまま行っていた言動に対して、脳の発達により理性という機能が働くことによって、これまでに発現していた感情と新たに発現した理性との間で矛盾が生じ、バランスが取れず不安定な状態となる期間のことを、思春期と呼ぶ。

多くの人間は、おおよそ11歳ごろから発現する自身が抱える感情と理性との間で生まれる矛盾に対して、おおよそ18歳ごろまでに何かしらのこたえを得て、社会に適応していくのだと考えられる。

生理現象による感情をコントロールし、社会に適応するために発現する機能こそが、理性であるといえるだろう。

3-4.感情は常に理性のコントロール下にあるのか

人間社会に適応している人間ほど、理性によって感情をコントロールすることができていると筆者は考えている。

しかし、くり返すが、理性と感情は相対する要素で、矛盾を生む。
矛盾をのみこみ、コントロールをする事は、けして容易ではないことだと筆者は考えている。
その一方で、矛盾を意識することなく、ごくごく自然にコントロールをすることができる人間がいることも事実だろう。

では、章題としてあげた「感情は常に理性のコントロール下にあるのか」という点だが、筆者の答えは否である。

たとえば、体調不良時や眠気がある時、そして飲酒時。これらの状態にある時、感情は理性のコントロール下から逃れ、思うがままに振る舞うことがある。

『酒を飲むと人が変わる』
という言い回しがあるが、これは言葉の通りに人が変わったわけではなく、コントロール下から逃れた感情がおもうがままに振る舞っていることの例えだといえる。
特に理性への意識が強く、感情を常に理性でコントロールすることを意識している人間ほど、感情が表に出た時に人が変わったように見えるのだろう。

酒の場のでの失敗談は多かれ少なかれ成人した人間は持っているように思うが、理性を強く意識している人間ほど、失敗談を恥じて記憶に強く残る傾向にあるように思う。
そして、あれは自分ではない、と否定に走る人間もいる。

はじめに答えの一つとして提示したとおり、
「その個人における理性的な面と感情的な面が素を構成する要素であり、それらのバランスによって個人の特性の違いを生んでいる」
と、筆者は考えている。

そのため、「自分ではない」という否定は、理性的な面が感情的な面を否定することにつながるのではないだろうか。


4.理性と感情の同居

人間は生理現象の「感情」を生まれ持ち、成長と共にコントロールする術である「理性」を持つことで、社会に適応してきた。
社会というコミュニティに少なからず属し、生き抜くためには、「自身にとって適切な理性と感情の同居」が必要だといえるのではないだろうか。

理性と感情の同居、と考えたとき、どのようなイメージが思い浮かぶだろうか。
筆者のイメージはこうだ。

図1:理性と感情の同居

自身の中で、理性と感情が別ものとして存在しており、それぞれが意見を言っている。
そして、その意見を聞いて判断し、言動へ移すのが自己、というイメージだ。

理性と感情が別々の意見を言うこともあれば、意見が合致することもあるだろう。
理性と感情は相対するもので矛盾を持つ、と提起してきたが、性質として相対したとしても、最終的な意見の全てが相対する意見になるのかというと、否である。

それまで敵対していたキャラクター同士が、共通の敵や目的を認識した時、意見が合致する様に、普段相対している理性と感情の意見が合致する事もありえるだろう。

そもそも、人間の言動に関して、理性と感情だけでは語りきれない。
周辺環境や心身の不調、そういった外的要素が理性と感情、あるいは判断する自己に影響を与えた結果、言動として発現するというのはよくある事だ。

先述の飲酒による低迷状態も外的要素による影響下にある言動だといえる。

『酒は飲んでも呑まれるな』
という言葉があるが、言い得て妙とはまさにこのことだろう。


5.理性と感情と自己の関係性

5-1.関係性は人それぞれ

人間同士の付き合い方、関係性も多種多様にあるように、理性と感情と自己のイメージや関係性も多種多様で、個人によって変わると認識している。

何度も繰り返すようだが、個人の特性や素、あるいは自己は、その個人を取り巻く環境や経験によって大きく変わる。

私はあなたではないし、あなたも私ではない。

これからの内容に類似点があったとしても、それはあくまでも類似しているだけで、あなた自身の話ではない。
どうか、あなた自身であなた個人の特性や素、あるいは自己を見つけてほしい。

これからの先の内容が、私と同じような戸惑いや苦しみを抱えて生き続けている誰かの手助けになるのならば、筆者冥利に尽きるというものだ。

5-2.筆者の理性と感情と自己の関係性

図2:筆者の場合

筆者の場合、圧倒的に理性の意見が大きく、自己が感情よりも理性の意見を重んじる傾向にあり、それと同時に、感情の意見は無視してきたように思う。

自己の確立に至るまでの環境や経験など、思い当たる要因は様々あるが、成長過程におけるおそらく比較的早い段階から理性が発現し(改めて思えば、5歳あたりから既に理性で感情をコントロールし始めていたように思う)、理性の成長に応じて、理性の意見を重んじることが当たり前になっていた。
言動に乗せる感情の濃度や具合も含めて、感情を理性のコントロール下に置くことを自己が選択していた。

詳細は省くが、筆者は幼少期から相手や周囲を観察し、「この人とはいい関係を築いた方がいい」と感じた相手に気に入られるような言動を選択してきたタイプの人間だ。
故に、理性・感情・自己の関係性が、上記図のようになったのだと自認している。

そんな状況だったため、感情は理性でコントロールするもの、という考え方が当たり前になっていた。
感情との向き合い方をおろそかにし感情の意見を無視し続けてきたが、人間の生理現象は舐められないもので、時たま下記図のような状態にはなった。

図3:感情大爆発

感情の大爆発である。
感情が理性の意見を全く聞かず、自己はどうしたらいいのかわからずポンコツとなっていた。
なお、現実としては、下記のような状態だ。

  • 理由なく涙が出る

  • 自傷行動をとる

  • 突発的行動をとる

  • なにもできない

  • なにも考えられない

感情との適切な付き合い方の経験を積んでいないと、大爆発時に理性や自己ではどうにもできず、「とにかく何かをしなければ」と思う場合と、「すべてを放棄する」場合の、極端な選択肢しか浮かばなかった。
特に精神的に未発達だった未成年の時期は、顕著であった。
しかしながら、成長とともにいくどもの感情の爆発を経験した結果、「できうる限り放棄をする」という選択肢がうまれ、選ぶようになった。
理性と自己が感情の大爆発に適応できるようになったためだと思われる。

根本的には、何も解決はしていない。

5-3.なぜ今になって考えるに至ったのか

観察と考察には俯瞰的な視点を持つことが必要だと思うが、それらをほぼ無意識的に、途中からは意識的に続けて、アラサーになった。
ありがたいことに安定的な収入を得て、私的な事が色々と片付き、その過程で心身を壊しかけたりもしたが、案外、人間は丈夫であったし、社会は自ら来世を望むことに否定的だ。
10代のころの予定では、この歳の頃にはポックリと来世を目指していたはずなのだが、まぁ、ここまで生きてしまったなら、この先も筆者は生き続けるのだろう。

アラサーにして筆者は生きることにした。
今までも生きていたが、自立し、見切りをつけ、筆者自身のためだけの安心できる環境を得た今、能動的に積極的に生きてみよう、これまで置いてけぼりにしていた「感情」に向き合おうと、考えを改めたのだ。


6.改めて素を考える

6-1.結局のところ

理性・感情・自己、この3つがそろって素なのだろう。
矛盾をしていようが、判断を放棄しようが、すべてひっくるめて、素なのだ。

「素を出せない」「素がわからない」
と、筆者自身も考えていたが、素を構成する要素が「理性」と「感情」であり、どのように言動に表すかあるいは表さないか、という判断を「自己」が行っているというだけで、理性面が強く表に出ようが、感情面が強く表に出ようが、自己が判断をした限り、すべてが素なのだと理解をした。

矛盾している要素があるがゆえに、そして外的要因でも変化する要素であるがゆえに、自身でも自身の素を完全に理解することは容易ではないように思う。

自身でも理解が容易ではないものを、他人が理解することはなおさら難しいことだろう。
筆者個人としては、『結局皆様他人事』。
仮に「素」を定義され、提示されたとしても、同じことを他者にはやらないだろう。

勝手に「素」を定義されることは、とても不愉快だと学んだためだ。

6-2.個人の違い

「感情面をだし合えないと、本音を語れないと、親しくなれないような気がする」
個人に得手不得手があるように、受け止め方も個人それぞれだ。
それが適切だと思う個人もいれば、そうは思わない個人もいるだろう。

社会というコミュニティで生きる以上、相手が表現する選択をした「自己」に対して、何かしらの反応を示さなければいけない場合もあるだろう。
相手が表現する選択をした「自己」は、多種多様な個性がある中の一つでしかない。
明確な正解があるようなものではない個性に対して、いちいちとやかくやと反応し悩むことは、適切な場合もあれば、そうではない場合もあるだろう。

自身にとって適切な対応を選択できるようになれば、きっと今よりも快適に生きることができるのではないだろうか。


7.おわりに

ここまでざっと7000字、このつぶやき自体を作成しはじめてから一週間の時が過ぎているが、また一つ、筆者自身の中でのこたえを見つけられたような気がしている。

何事も経験だというが、アラサーになっても新たな気づきや発見があるのは素晴らしいことだと思う。
まだまだ知らないことも知りたいこともたくさんある。
この知識欲が尽きない限り、そしてストレスでグッバイ今世とならないかぎり、アラサーは今日も生き続け、いずれアラフォーを名乗るようになるのだろう。

それまでは、何かしらの探求と考察を続けていきたいと思う。


ヘッダー画像は下記からお借りし、作成いたしました。
素敵な写真とその提供に感謝御礼申し上げます。
Tomislav JakupecによるPixabayからの画像】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?