神でも5手はかかる
「将棋で気づいた事だが将棋以外にも使える事」だと思う。
先日、ひさびさに妹以外と指した。対局したE氏は4か月ほど前、妹と一手違いの勝負をしていた人物だ。その後ネット将棋で研鑽を積んでいるとのことだった。
今まで駒オチでばかり指していた相手との平手には一定の緊張感がある。駒オチの場合はなんだかんだいっても変則勝負という事になるが、平手はそうはいかない。例によって、運やランダムの要素はないのだからこそ、負けた時の言い訳はできないのが将棋だ。
平手で指して、終盤はもたつきつつも勝たせてもらったのだが、彼との将棋でいくつかの気づきがあった。
まず、彼の将棋だが攻撃偏重で防御はほとんどせず、奇抜な手を好むというもの。少し懐かしさを覚えるのは私の将棋と傾向が似ているからである。
「自分より強い相手とはまともにやっても勝てない。だったら奇手奇策で」
という戦略は私はあながち間違いではないと思っている。問題はその中身の戦術構築だろう。奇手奇策はメイン戦力にすべきではない。理に外れた手法は見切られると敗北を早めるだけである。とくに私は身にしみて知っている(笑)。
私が過去に長兄に言われた言葉を思い出す。
長兄「お前が勝手に体を崩すから、こちらは軽く押すだけで勝てる。」
E氏と対局をして長兄の言葉の意味が見えてきた。こちらが好手を指しているのではない。E氏が勝手に崩れているのだ。
先日、妹と指した時にも似たケースがあった。
私「なぜ、そんなに攻め急ぐんだ?」
妹「好きで攻めてるんじゃない。ぐずぐずしてるとそっちから攻めてきたり、抑え込まれたりするから攻めさせられてるんだ」
E氏にも妹にも感じるのは「一気の大戦果を狙いすぎ」ということだ。将棋と言うのは互角の戦力で交互に一手ずつ指すものだ。したがって、そんなに急に良くなる手はありえない。あるとしたら、それは相手がミスをした時くらいだ。
神様が先手、私が後手、しかも私が八百長でわざと早く神様にまけるとしても、「7六歩」「4ニ玉」「3三角成」「3ニ玉(ここは玉が馬のききにいればなんでもいい)」「同馬」と5手かかる。
私のようなアマ初段に1手でいきなり勝つ事はたとえ神様でも不可能なのだ。まして、将棋は相互に相手の狙いをつぶし合うルールである。相手に一定の技量がある時点で「大技狙い」「奇手奇策連発」は不合理なのである。
・・・なお、私が格上相手に行う奇手奇策、奇抜な手は「切り札」であって、メイン戦力ではない。変則戦法は相手より「その局面に詳しい」という優位性があるからである。また、「受けの奇手」は連発するものではなく、メインの手は「悪いなりにガマンする」地味で苦しい後退防御である。あくまでも勝負どころを見極め、相手が最も引っかかると思われるタイミングで仕掛ける。普段の地味な手との「落差」で相手のミスを誘うのが真骨頂だと思っている。・・・それでも長兄にはほとんど決まらないが。
防御せず、攻め一辺倒の人の将棋の目的は「相手玉を詰める事」になっている。一方、本来の将棋の目的は「自玉を詰められる前に相手玉を詰める事」である。この違いが大きい。
わかりやすくするために極論を示す。たとえば貴方がただの一手で相手玉を詰められるならば、先手必勝で攻撃だけをすればよい。逆に貴方の玉が相手に絶対に詰められなくできるならば、その防御を固めれば良い。イージスの盾やアウトレンジ戦術の最たるものだろう。
だが、少なくとも開始後当分の間はそのようなことにはならない(神様ですらイカサマで協力する相手玉を詰めるのに五手かかるのだから)。もとより将棋は、攻めのみで「最速の勝利」を得る事や、守りのみで「盤石の不敗」を築く事が出来るほど単純なものではない。ゆえに攻めるべき時は攻め、守るべき時は守るという速度計算が必須とされるのはそのためである。
●ちょっとおまけ
世間一般に各個撃破と言うと「大きな敵を複数の小さな敵に分断して、倒しやすくした上で個別に撃破する事」である。
これを転用すると「目標の細分化」という考えに到達する。妹がおおまたの一歩を踏み出すと同時に私は小さな一歩を踏み出す。妹が足を下ろす頃には私は小さく2歩進んでいるので、既に状況は変わっていて、妹の一歩は予定通りに踏み下ろす事が出来ない。常に相手より小さく細かく、内側を取るように自分の手をくみ上げていく。わずかな差を少しずつ開いて行く作業の積み重ねという面が将棋にはある。
大きな目標は時間がかかるし、相手に妨害されるが、小さな目標であれば相手が対応する前に達成してしまう事が出来るということだ。これは対戦型のルールで特に有効な考え方だ。
CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。