【感想】『じぶん・この不思議な存在』とダイバーシティ
こんにちは、白山鳩です! クルッポゥ!
マガジン『本を読んだら鳩も立つ』での本のご紹介です。
前回の記事はこちらです。↓↓↓
さて今回は、
鷲田清一さんの名著『じぶん・この不思議な存在』と、
ダイバーシティについて見ていきます。
1つの記事あたり、だいたい5分で読めますので、お気軽にスクロールしてみてください!
ただし、ネタバレ注意です!
じぶんとは何か
さて、今回はTwitterでご紹介いただいた本の中から、
『じぶん・この不思議な存在』
を題材としました。
鷲田清一さんの同著は高校の教科書にも取り上げられているので、
「なんだか読んだ記憶があるなあ」
という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
さて、同著では、一貫して、
「じぶんとは何か」
という問いに向き合っていきます。
わたしたちは、目の前にあるものを、それはなにであるかと解釈し、区分けしながら生きている。
たとえば現実と非現実、
じぶんとじぶんでないもの、
生きているものと死んだもの、
よいこととわるいこと、
おとなと子ども、
男性と女性……。
こうした区分けのしかたを他のひとたちと共有しているとき、
わたしたちはじぶんを「ふつう」(ノーマル、ナチュラル)の人間だと感じる。
世の中にあるいろいろなものを、
「子どもは元気/大人は元気がない」
「他人を認めるのは良いこと/差別をするのは悪いこと」
というように我々はいろいろなものごとについて、ラベルを貼って整理しながら生きています。
そして、自分が他人と同じように考えられているなあと思えるとき、
自分が常識に沿った「ふつう」の人間だと感じられるわけです。
一方で、自分が「ふつう」の人間だと感じられない瞬間が存在します。
それは、「~である/~でない」という分類で、自分のことを整理できないときです。
ではなぜ、わたしたちは意味の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。
それは、わたしたちが「~である/~でない」というしかたでしかじぶんを感じ、理解することができないからではないだろうか。
そしてそういう意味の分割のなかにうまくじぶんを挿入できないとき、
いったいじぶんはだれなのかという、
その存在の輪郭が失われてしまうからではないだろうか。
例を挙げて考えてみましょう。
これは私の知合いの男性から聞いた話です。
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彼は、20歳を過ぎた学生の息子とバーに入ったそうです。
ホテルの奥にある人気の少ないバーの中、彼は息子とカウンターに座り、グラスのウィスキーを注文しました。
しかし息子が続きません。
バーテンに促されてようやく、「ウーロン茶をください」と重い口を息子が開きました。息子はお酒が強くなかったのです。
「お酒はよろしいのですか」とバーテンに聞かれたとき、父親が口を開きます。
「こいつ、まだ子どもだからさ」
するとそのとき、息子は静かに泣き始めたというのです。
ーーーーー
このとき、涙を流した彼はどのような気持ちだったのでしょうか。
20歳を過ぎて大人になったと思ったはずの自分が、
ただ酒を飲めないだけで「子ども」だとされる。
そして、酒を飲むことができなければ、自分は一生「子ども」のままなのだろうか。
いまの自分は大人なのか、大人でないのか。
「いったいじぶんはだれなのか」という、混乱の中にあったのではないでしょうか。
「じぶんらしさ」はじぶんの中に存在しない
さてここまでは、
世間が考える「~である/~でない」という整理の中に自分をうまく当てはめられないとき、
自分という存在がよくわからなくなる、というのを見てきました。
では、世間や他人を頼りにせず、自分の内面だけを見つめて、「じぶんとは何か」「じぶんらしさ」を探せばよいのでしょうか。
しかし、同著ではそのような「じぶん探し」を否定しています。
「じぶんらしさ」などというものを求めてみんなはじぶんのなかを探しまくるのだが、実際わたしたちの内部にそんなものあるはずがない。
もしそのようなものが潜んでいるなら、そもそもそういう問いに囚われることもないはずだ。
それより、じぶんがここにいるという感覚のなかに身を置くためには、眼をむしろ外へ向けて、自分はだれにとってかけがえのないひとでありうるかを考えてみたほうがいい。
同著では、
「〈わたし〉というものは《他者の他者》としてはじめて確認されるもの」だとしています。
つまり、
「他人にとって、自分とはどんな存在なのだろうか」を考えることで、
「じぶんとは何か」の答えになるとしているのです。
さて、わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、
〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。
とりわけ、その問いをじぶんの内部に向け、そこになにかじぶんだけに固有なものをもとめる場合には。
そんなものはどこにもない。
自分が所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、
だれかある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。
けれども、ここで念を押しておきたいことがある。
それは、《他者の他者》であるというのは、他人に身をささげること、
つまり自己放棄を意味するのではないということだ。
他人に身をささげるというのは、ことばとは裏腹に、
他人のなかにじぶんの場所を確認するというよりもむしろ、
じぶんをささげるその他人をイメージとしてじぶんのうちにもつことを意味する。
じぶんがイメージした他人、つまりはじぶんのなかの他人にじぶんをささげるのであれば、それは結局、自己愛にすぎない。
「あんた、他人が好きなんじゃなくて、
他人に身をささげている自分が好きなんでしょ」
と言わんばかりの一節ですね。
「他人の中で自分はどんな存在か」から、自分は定義される。
だからといって、それは「とにかく他人を愛せ」ということを意味しない。
そんなメッセージが伝わってきます。
「他人の中の自分」という、移ろいやすく曖昧な価値観の中にはじめて「じぶん」を見つけられるのだろうと。
そして先ほどの、お酒を頼めず涙を流した学生の例に立ち戻ると、
「父にとっての自分は”子ども”だ」と感じられたことでしょう。
しかし、「弟にとっての自分は"大人"だ」と感じられることもあるかもしれません。
あるいは、時が流れたとき、「父にとっての自分は”一人の大人”だ」と見てもらえる日が来るのかもしれません。
価値観の”アップデート”は正しいか
さて、
「時代の変化に伴い、価値観を”アップデート”しなければならない」
という言説を最近よく目にします。
しかし、鳩はこの言葉に大きな違和感を覚えるのです。
例えば、2021年2月、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の会長だった森さんは、「女性蔑視発言」を機に辞任しました。
「公の場で女性を貶めるような発言をついしてしまう」という既存の価値観に対し、
「自分たちが語っている最新の価値観こそ正しい!」
「古い人間は、この新たな世間の考えへ、アップデートせよ!」
と迫っていったわけです。
この考えからは、
「どこかに正しい考えが存在」しており、
そして「自分は正しい側に立っている」という万能感が漂ってきます。
そして、「多様性を認めろ!」という言葉がまさに多様性を否定しているという自己矛盾に陥っています。
誤解の無いように言えば、鳩自身も森発言は女性を貶める発言であり、それは訂正するべきだと思います。
しかしその価値観は、一人の人間を徹底的に追い詰めるほどの正義の旗印になりうるのだろうかとも思うのです。
「じぶんがイメージした正しい価値観、つまりはじぶんのなかの正しい価値観にじぶんをささげるのであれば、それは結局、自己愛にすぎない」
と鳩には感じられました。
そして、そのような自己愛が行きつく先は、結局、森さん世代の既存の価値観に代わる、新しい権威としての「価値観」の誕生ではないでしょうか。
自分のことを正義だと思っていた勇者が、その強さゆえにいつの間にか悪落ちして魔王になっていくのを見ているような気持ち悪さを覚えるのです。
「正しくない価値観」を徹底的に叩き続ける文化を定着させると、
その代償はいつか自分に返ってきます。
自分自身が年を取ると、価値観を”アップロード”するのは困難になっていくことでしょう。
そんなとき、自分は常識に沿った「ふつう」の人間ではなくなってしまうのでしょうか。
価値観を変えることができるとしても、時間がかかることでしょう。
時には”過ち”を犯しながら、時代に追いついていくことになるのではないでしょうか。
そんなとき、あまりに強固な「自己愛」、絶対的な「価値観」が世間に溢れていると、その社会では生きていくのが難しくなります。
「他人の中の自分」という、移ろいやすく曖昧な価値観の中にはじめて「じぶん」を見つけられる。
その揺らぎや移ろいに対する優しさがあってこそ、ダイバーシティは成り立つのではと思います。
さて、多くの企業がダイバーシティ&インクルージョンに取り組んでいると思いますが、
「強い価値観で自分以外の他人を縛り続ける」ことを答えとせず、
「他者との関係性の中で自分を見つめる」
「そのとき、自分の周りにはどんな他人がいるのだろうか」
「そして自分というこの不思議な存在は何なのだろうか」
を社員に考えるチャンスを与えてくれる企業があれば、それはすばらしいだろうなあと思う鳩でした。
次回「本を読んだら鳩も立つ」では、山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』について書いていきます。
お楽しみに。
to be continued...
参考資料
・鷲田清一(1996)『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)