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【ビジネススクール/MBA/体験記】第36話『ミリンダ王の問い』

こんにちは、白山鳩です! クルッポゥ!

前回の『能ある鳩はMBA』の記事はこちらです。↓↓↓


さて、今回は、ブランドの秘密を解き明かす仏典『ミリンダ王の問い』の関係を見ていきます。

このビジネススクールの体験記は、正気か……?」と思った賢明なる読者のみなさまも、

1つの記事あたり、だいたい5分で読めますので、お気軽にスクロールしてみてください!


LVMHとブランド戦略

さて、みなさんは、「LVMH」と聞いて、ぴんと来るでしょうか。


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「LVMH」とは、「モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン」の略です。

そう、あのルイ・ヴィトンを傘下に持つ、ファッション業界最大といってもいい、コングロマリットです。


ルイ・ヴィトンや、ディオール、高田賢三の立ち上げたケンゾーなどのファッションブランドのほか、

化粧品や香水、ジュエリー、ワインなどの各種ブランドを傘下に収めています。

Wikipedia「LVMH」(2022年2月13日閲覧)


この「LVMH」を題材としたビジネス・ケースが、授業で取り上げられることがありました。

LVMHは、さまざまなブランドを次々に傘下に加えながら、ブランド同士やデザイナー同士のシナジーにより、拡大を繰り返していきます。


さて、そうしてブランドの買収を続けていると、

ブランドを立ち上げたデザイナーが去っていくこともあります。

1993年に買収されたのち、1999年に高田賢三が離れたケンゾーは、その代表例です。


そんなとき、鳩はふと思ったのです。

「ブランド」って、なんだろう……

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ブランドとは

さて、授業ではブランドについての解説が進んでいきます。

ブランドとは、企業の名前やロゴや製品のデザインなどが、顧客の心にたまっていくことで生まれるモノだ……
ブランドがあれば、製品の内容に係わらず、顧客に高い商品を買わせられる……


ブランド力があるからこそ、顧客はとにかく、

「ルイ・ヴィトンの製品が欲しい!」

「14体のパペットが添えられた、ルイ・ヴィトンのニットが欲しい!」

となっていきます。


こうして企業は、

ブランド力があるからこそ、顧客の顔ばかり窺う必要がなくなる

となるわけですね。


しかし、ふと鳩は思いました。

そのブランドを担っている中核のデザイナーがいなくなったら、
そのブランドはどうなるのか?
高田賢三の去ったケンゾーは、果たしてケンゾーと言えるのか?
形があるようで無いような、この、
「ブランド」
と呼ばれるものは、いったいどんな実体を持つのか?


ミリンダ王の問い

そんなとき、ふと、頭をよぎったのが『ミリンダ王の問い』です。


『ミリンダ王の問い』とは、

古代インド北部を支配したギリシャ人・ミリンダ王と、

ナーガセーナ長老の問答を記録した仏典です。


……この辺で記事を読むのを止めようと思ったそこのあなた、

もう少しだけお付き合いください。


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まあ、私も仏教についてハチャメチャに詳しいわけでもないので、

『ミリンダ王の問い』という仏典に首を突っ込むのは危険なのですが……

ここに出てくるたとえ話に、いくつか興味深いエピソードがあるのです。


車のたとえ

ミリンダ王とナーガセーナ長老は、さまざまな問答を繰り返していきます。

さて、ミリンダ王とやりとりをしていたナーガセーナは、

自分は「ナーガセーナ」と世間に呼ばれているけれども、

それはあくまでも名前、記号であって、

「ナーガセーナ」という実体は存在しないと言いました。


「私は、ナーガセーナと呼ばれているが、実体としてのナーガセーナは存在しない……」

ちょっと何言ってんのかわからないですね。

ミリンダ王も、きっと同じことを思ったことでしょう。


そこでミリンダ王は、では一体何が「ナーガセーナ」なのか尋ねます。

『〔前略〕尊者ナーガセーナよ、髪がナーガセーナなのですか?』
『大王よ、そうではありません』
『身毛がナーガセーナなのですか?』
『大王よ、そうではありません』

こんな調子で、「爪はどうだ」だの、「脳髄はどうだ」だの、

身体の各部分について同様の質問と返答が繰り返されます。


いつまでも「ナーガセーナは存在しない」と繰り返すので、

ミリンダ王は、「めちゃくちゃな嘘をつくな(意訳)」と言いました。


さて、ここにいたり、ナーガセーナはミリンダ王に反撃します。

ナーガセーナはミリンダ王に、

「車とは一体何なのか」

と尋ねます。

『軸が車なのですか?』
『〔ナーガセーナ〕尊者よ、そうではありません』
『輪が車なのですか?』
『尊者よ、そうではありません』
『車体が車なのですか?』
『尊者よ、そうではありません』

さきほどとは反対に、ナーガセーナが車の各部分を挙げていき、

ミリンダ王が「どれも車ではない」と答えていきます。


つい先ほど、「ナーガセーナは存在しない」という言葉に、

「嘘つきだ!」

と突きつけたミリンダ王。


しかし今度は反対に、

「車は存在しない」と自ら述べたところで、

ナーガセーナから「嘘つきだ!」と、ブーメランを食らうことになります。


そこでミリンダ王は、

「車」とは、各パーツの関係性によって成り立つ名前、記号なんだ

というような返事をします。


それを受けてナーガセーナは、

自分が「ナーガセーナ」と世間に呼ばれているけれども、
それはあくまでも名前、記号であって、
「ナーガセーナ」という実体は存在しない

という最初の話も同じことだ、と答え、

ミリンダ王は「もっともです」と納得するのでした。


変化と同一性

また、他にもこんなたとえ話があります。

Wikipediaによくまとめられているので、こちらを引用しましょう。

Wikipedia「ミリンダ王の問い」(2022年2月13日閲覧)


ミリンダ王は、ナーガセーナ長老に、
「変化する事物は、変化する前と変化した後で、同一のものなのか別ものなのか」と問う。
ナーガセーナ長老は、「同一でも別ものでもない」と答える。
ミリンダ王に例えを求められて、ナーガセーナ長老は燈火の例えを出す。

ある男が一晩中燈火を燃やしているとする、
その炎は浅夜と深夜と未明とでは同一だろうか。

ミリンダ王は違うと答える。

では別ものかと問われ、ミリンダ王はそうでもないと答える。

「燈火は一晩中、同一の基体に依拠して発光していたので、各段階の炎は即自に同一とは言えないまでも、別ものだとも言えない」と。
ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。


ナーガセーナは、「幼児の自分と、いまの自分は、別物か」とミリンダ王に問うています。

ミリンダ王は「違う」と答えていました。

そんなとき、鳩はふと考えてしまいます。

では、10年前の自分と、いまの自分は、別物か?

1年前の自分と、いまの自分は?

昨日の自分と、いまの自分は?


そうそうブランドの話だった

さて、みなさん、この記事はブランドをテーマにしていたことを思い出してください。


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ここで、『ミリンダ王の問い』に「ブランド」を挿入してみましょう。


あるブランドが「ルイ・ヴィトン」と世間に呼ばれているけれども、
それはあくまでも名前、記号であって、
「ルイ・ヴィトン」という実体は存在しない

「ブランド」とは、関係性によって成り立つ名前、記号
「ケンゾー」は、高田賢三が出ていく前と後で、同一とは言えないまでも、別ものだとも言えない


『ミリンダ王の問い』のテーマの1つに、

「自我は実体として存在するのか」

というものがありますが、

「ブランド」というあいまいな概念にも通ずるものがあるなあ、と思う鳩です。


ブランド・この不思議な存在

また、「自我」といえば、鷲田清一さんの『じぶん・この不思議な存在』に、こんな一節があります。


もし身体がわたしの所有物だとすると、
所有物は譲渡や交換が可能であるはずだから、
足から順にじぶんの身体をつぎつぎに別の身体と取り替えていっても、
わたしはわたしであるはずだ。

けれども想像が腹部あたりにたっしたころから、
だんだんあやしい気分、おぞましい気分になってくる。
身体はわたしが所有しているものではないと、前言を翻したくなってくる。


あるブランドの中身をとっかえひっかえしていったとき、

果たしてそのブランドは、同一と言えるのでしょうか。


ちなみに、『じぶん・この不思議な存在』には、こんなことが書かれています。

「じぶんらしさ」などというものを求めてみんなはじぶんのなかを探しまくるのだが、実際わたしたちの内部にそんなものあるはずがない。

もしそのようなものが潜んでいるなら、そもそもそういう問いに囚われることもないはずだ。

それより、じぶんがここにいるという感覚のなかに身を置くためには、
眼をむしろ外へ向けて、
自分はだれにとってかけがえのないひとでありうるかを考えてみたほうがいい。


結局、「自分」とは、関係性の中でしか見えてこないようです。

そして、この「自分」を少し、置き換えてみると……

「ブランドらしさ」などというものを求めてみんなは企業自身のなかを探しまくるのだが、実際企業の内部にそんなものあるはずがない。

もしそのようなものが潜んでいるなら、そもそもそういう問いに囚われることもないはずだ。

それより、ブランドがここにあるという感覚のなかに身を置くためには、
眼をむしろ外へ向けて、
この企業はだれにとってかけがえのないブランドでありうるかを考えてみたほうがいい。


ブランド力があるからこそ、企業は顧客の顔ばかり窺う必要がなくなるはず。

一方で、「このブランドとは何なのか」と考えるときは、「ブランド」という実体は存在しない。

この企業のブランドは何かは、顧客との関係性の中で生まれる。


気づけば、「LVMH」のビジネス・ケースはそっちのけで、鳩は『ミリンダ王の問い』を読み漁っており、そしていつのまにか授業は終わっていました。

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さて、鳩が授業後に、

「ブランドを理解するために、『ミリンダ王の問い』を読もう!」

と周りの生徒に伝えたところ、

ヤバい奴だと思われたのか、昼ご飯を一人で過ごすことになりました。


関係資料

〇『じぶん・この不思議な存在』について取り上げた記事です。


参考資料

・中村元(1963)『ミリンダ王の問い 1―インドとギリシアの対決』(東洋文庫 7)


・鷲田清一(1996)『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)


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