「わからない」という面白さ
旅先で、川埜龍三さん、というアーティストの展示を見た。
妻と一緒に、現代美術や博物館を鑑賞して回った後、他に何か面白いものはないかと、ふらりと立ち寄った施設にその展示スペースはあったのだが、そこに置かれていた作品たちに、目を奪われた。
形式としては、平面的な絵画もあれば、立体的な造形物もある。展示スペースに流れるBGMも、ご自身で作曲しているらしく、後からそれを知った時は、その多才ぶりに驚いた。
作風は、どう表現すれば適切なのかがわからない。一見、リアルな人間や動物をかたどったデザインなのだが、同時に、幻想的というか、まるで絵本の登場人物のような(と私は感じた)雰囲気もある。抽象的と具体的、混沌と秩序とが同時に存在しているようで、表面的には無機質な印象を受けるのに、ひび割れたその隙間からは、見る者を思わずのけぞらせてしまうような、過剰な生命力のようなものを感じるのである。この「川埜氏の作品から受ける印象」というものを言語で表現するのは、本当に難しいところなのだが、私は、そういった雰囲気にひどく惹きつけられて、展示の前で立ち止まった。
(茫漠とした語彙力で、本当に申し訳ない)
私が特に良いと思ったのは、日本神話に出てくる「ヒルコ」をモチーフにした作品だ。
背景は真っ黒。巨木をくり抜いた丸木舟と思しきものの梁の上に、頭に巻貝を乗せた(あるいは、巻貝の形をした帽子をかぶった?)人物がしゃがみ込んでいて、左手を水平に伸ばしている。舟の内部には赤い液体が満ちていて、それが側面に空いた複数の穴から漏れ出し、血溜まりのようなものを作っている。
それがヒルコをモチーフにしている作品だと分かったのは、場内にいた親切なスタッフさんが、そのように教えてくれたからだ。同じ作品に、絵画と立体造形の二種類があり、立体造形はそれ専用のスペースが設けられていて、照明を落とした部屋の中に、浮かび上がるようにライトアップされて、佇んでいた。
最初、絵画だけを見た際の印象としては、ヒルコの手首から流れ出た血が舟を満たし、船体に空いた穴から噴き出しているのかと思っていたが、立体造形を見ると、どうやらそうではないらしく、これは私の勘違いだった。絵と立体造形とでは、微妙に差し伸ばした手の向きが違うのだ。絵画では、ヒルコと思しき人物の身体が船首に対して90°左を向き、船尾に向けて左手が伸ばされているのに対し、立体造形では、身体が船首の方(前方)を向き、左手が船体の外側に出るように伸ばされていて、あれでは例え手首から血が流れていたとしても、船体内には溜まらない。となると、あの赤い液体は、どこから湧いてきて、舟の中に溜まっているのだろうか。想像をかき立てられる。
以前にカニ人の考察記事でも書いたが、ヒルコは古事記では水蛭子とも書き、オノゴロ島(淤能碁呂島・自凝島)に降り立ったイザナギ・イザナミの夫婦神がまぐわい、最初に生んだ子供だったが、不具の子とされ、生まれた直後に葦船に乗せて流されたとされている。川埜氏が、ヒルコをモチーフに作品を制作することにより、何を表現したかったのか、それは私にはわからない。もっと詳しく、センスのある人であれば、様々な知識をもとに、氏の作品に込められたテーマや意味を読み解くこともできるのだろうが、私は、我が国の神話に詳しいわけでもなければ、絵画の技法も、美術の歴史も、何も知らない。専門的な知識は何もない。だから、氏の作品を見ても、そういった知識に基づく分析を施すことはできない。それは、私程度の能力では、まったくもって不可能な行為なのだ。
その代わり、何もわからなくても、というかむしろ、何もわからないからこそ感じる、シンプルな驚きがある。すでに知っているものを見た時、私の脳内では、無意識に、かつ能う限り、その対象を細かく分断し、これまでの人生で蓄積された知識や経験をもとに作られた、「知っているもの」フォルダとか棚とかに手当たり次第に分類し、咀嚼しようとする。それはそれで楽しいし、相応の驚きもあるのだが、「わからないもの」に出会った時に生じる驚きは、それとは質が異なる。
無論、「わからないもの」に出会った時でも、本当にまったく、一切の分類・咀嚼ができないというわけではない。それが絵だったり、立体造形だったりといった点や、形態が人を模しているとか、動物っぽい特徴を持っていたりとか、あるいは、素材が絵の具やら粘土やら鉄やらといった、そういう常識的な知識に基づく分類や、イメージ的な意味での咀嚼というのは、そういう「わからない作品」を見た時にも無意識的に生ずるし、できる。それは当たり前のことだ。しかし、そういうことを言いたいのではなく、ここでいう「わからない」というのは、その作品のテーマや、作者の意図、作品の背景にある「物語」といったものが「わからない」ということである。
「この作品は、何を表現することを意図して作られたものなのか?」
「なぜ、この作品はこの形式でなければならなかったのか?」
それらが、わからないから、「わからない」なのだ。私自身の知識や経験などたかが知れているとはいえ、それでも「わからない」。理性による分析を拒絶されているようにすら思える作品に出会った時、私の意識は、一種の興奮状態に陥る。作品そのものを感覚器官によって捉えながら、表層意識という薄皮の一枚下で、明確な思考になる前の、原料のようなドロドロしたものがぐるぐると渦巻き、循環を始める。その時の私自身を第三者が見れば、表情も動かず、驚きを声に出すこともなく、ほとんど何も感じていないのではないかと見做されるだろう。しかし、そこには驚きの感情が、確かにある。脳が静かに、だがずっと興奮し続けているような状態になっているのだ。私は、自分の意識をそういう状態に転換してくれる作品が好きで、川埜氏の作品は、そういう作品だった。
そういった作品を鑑賞しながら、特に何かを考えているわけではない。だが、考えていないからといって、何も感じていないわけではないのだ。絵は動かない。立体も動かない。それでも、私の心は動き続けている。ずっと。対流するマグマのように。静物を見る時は特にそうだ。感情にずっとさざなみが立っている。そういう作品を鑑賞するのは、すごく楽しいし、興奮を覚える。それは理性によってもたらされる興奮ではない。もっと原始的な、動物的なレベルの興奮だ。
「この人の作品は素晴らしい」。他にもあるならば、ぜひとも見てみたいと思い、探していると、併設されているカフェにも、いくつかの作品が展示されているらしいことを知った。建物の二階にあるというカフェへ赴き、そこに設置されていた作品を鑑賞し、帰り際に階下にある売店で小さなグッズを買おうとしていると、そこでまさかの川埜氏ご本人と対面した。
川埜氏はすごく気さくな方で、全身から常にエネルギーを発散している人物という印象を受けた。少し離れたところにギャラリーがあり、そちらにも作品を展示しておられるという。売店のレジで会計を済ませている最中の私に、ありがたくも、「今から一緒に来る?」とお誘いの言葉をかけてくださったのだが、その時は妻と一緒に来ていたし、私の一存だけで次の行き先を決める訳にはいかないのと、単純に突然ご本人に出会って軽いパニック状態に陥っていたこともあり、畏れ多くもお断りしてしまった。私は、他人と話すのが苦手で、あらかじめ台本を用意していれば淀みなくスラスラと喋れるのだが、アドリブで、しかも初対面の方が相手となると、上手く会話を繋げることができないのだ。
だが、氏の作品には非常に興味があったので、妻の了承を得て、結局は徒歩七、八分ほどの距離にあるギャラリー、「ラガルトプラス」へ向かった。その時ちょうど在廊されていた川埜氏は、一度は誘いを断った私を快く迎えてくださり、私は妻と共にギャラリー内に展示されている作品を見て回った。そこにあったものは、どれも実に素晴らしく、見ていると心が落ち着き、また同時に様々な感情が喚起され、胸が立ち騒ぎ始めるような作品ばかりだった。我ながら非常に矛盾した表現だと思うが、実際にそういう心境になるのだから仕方がない。
これが、川埜氏に出会った時に買っていた焼き物である。とにかく何か手元に置いておきたいと思い、予算が許す範囲で購入したお土産だ。サイズは小さいが、「ヒルコ」が乗っているのと同じ、丸木舟のようなデザインの船。神話では、ヒルコは葦船に乗せて流されたというから、それをイメージしたものかもしれない。窪んでいる部分に釉薬のようなものが溜まっていて、キラキラと光る様がとても綺麗だ。
今回、思いがけず素晴らしい体験をすることができて、旅の良さというものを再確認することができた。川埜龍三氏という稀有な才能と世界観を持つアーティストに出会えた偶然に、心より感謝したいと思う。