「私はヘテロ」「いつかは恋を知るよ」

 タイトル付けのセンスがないので、諦めて、文中に用いた目に留まりそうなフレーズに登場してもらった。2つなのは、1つでは無意味に意味が発生してしまいそうだったから。


 私はヘテロセクシャルを自称しているが、これは社会によってつくられた偶然なもので、極めて主体的ではないことに少しずつ気づいていた。

 すてきな女の子の虜になることがこれまで何度かあった。ほんの短期間、いいなと思うことは幾度もある。隠すこともないので正直に言うと同時期に何人もいいなと思う魅力的な人がいたこともある。
 すごく好きだけど、恋ではなかった。

 性欲の対象とはならないからとか、友達でいられなくなるのがこわいからとか、そういった理由から恋ではないと否定するのではなく、わたしがヘテロだからその感情は恋ではなかった。その「私はヘテロ」という意識は、異性間恋愛が生物学的にも社会的にも有利で"ふつう"で、同性間が生物学的にも社会的にも不利で"めずらしい"という世界に生まれ落ちて形作られた。私において、「辛いことは避けよう」という幸せに生きたい無意識と、「"ふつう"を継承しよう」という幼くして培われた無意識が、たまたまその都度「あの子すてき」より勝っているだけであった。そしてこの意識はあまりに強固で、今後どれだけ魅力的な女性に出逢おうとも覆ることがないことを確信しながら「私はヘテロ」と言うのであった。もしあなたがこの確信に疑念を抱くとすれば、アセクシャルの人に「いつかは恋を知るよ」と言うのと同じだけ滑稽であろう。同性カップルが5割の世界に生まれていたらば私はバイセクシャルだったかもしれないしレズビアンだったかもしれない。どんな世界なら私はアセクシャルだっただろうかと想像する。

 「私」の主体はそんなに主体的ではない。性的指向のマイノリティに対して不思議と、しかし自然と抱く「かっこいい」という気持ちの正体は、こんな世界に生まれていながらある、その圧倒的な主体さゆえなのかもしれない。

 だが、どれだけ主体的たるかは何が決めるのだろう。



※思考が更新されたり、性的指向が変化したりしたら追記する。これは25歳時点の記録として残しておく。ちなみに、私の中では筋が通っていたはずだが、言葉にして読んでみたら、自分でも通っているのかよく分からなくなった。他人に読ませるのが少し恐ろしい。主体性については一人で考えていても生きているうちには分からず仕舞いだろう。読書しよう。

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