アート読み物 『火と祈りとファンタジー』 彫刻家母里聖徳の〝鉄〟たち
The Fantasy Iron Realm: Discovering Bori Kiyonori's Sculptural Mastery
Feb 14, 2024 MAZKIYO
➡ 母里聖徳プロフィール
➡ 工業機械による制作工程とは?
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〝わからない〟という問題
ボリキヨノリの作品はよくわからない。
芸術作品であることはわかる。そこに〝在る〟からだ。
〝己〟を主張しているのだ、存在感を放ちつつ。本物だ。
もっと耳を傾けたくなる、触れたくなる、だれしもが、相応のSensitivity=感性をもつ者ならば。
そのまま「ホーホーホー」と闇夜のフクロウになって通り過ぎるほど、僕は日本社会に飼いならされちゃいない。(本も書けば画も描く)
キレイか?――キレイではない
精工か?――精工ではない
技巧的か?――そうは見えない
あなたも問うてみるといい。芸術とはそういうものだろう? なんなら――、
目を剥くような驚きはあるか?
気分を晴れやかにしてくれるか?
胸ゆする感動を与えてくれるか?
いっそのこと――、
7年前から背負ったままの世俗の塵芥を吹き払ってくれるエネルギーはあるか?(私事)
さて‥‥うむ‥‥だから‥‥よくわからないのだ‥‥が、まず思いつくのはデュシャンだろう。
〝インダストリアル〟という問題
作品の前に立ち、古今東西の〝芸術〟に思いを巡らせ、簡単に思いついたのがデュシャン。Marcel Duchamp(マルセル・デュシャン)の『泉(Fountain)』のように、ボリキヨノリ作品の背後には〝工業的〟な匂いが漂っている。
奇才フランス人の場合は、既製の工業製品である陶器の〝トイレ(俗にいうアサガオ)〟を横に倒し、サインを入れた。1917年にニューヨークで展示されたものだ。サインは〝架空の人物〟だというから、う~む‥‥なんという念の入りようか、頭のいい人か。笑ってしまえ。
人の世に初めて現れた高度なコンセプチュアル・アート(のひとつ)として、後世に多大な影響を及ぼした。まぁ、ようは――、
「どうだい? 美しいだろう?」
「あんたどう思う? 正直に言ってみな?」
「それじゃあ、アートってのはいったい何なんだい?」
平々凡々と日々を生きる人々への辛辣かつ知性的な問いかけだと思う。近代文明へのアンチテーゼかもしれない。〝幸福〟の再定義かもしれない。なんにせよ社会啓蒙だ。
だが、ボリキヨノリ作品は〝既製品〟を用いているわけではない。だからデュシャンとは違う。
ならば、いささか苦しまぎれだが――時代もフランス人から40年ほど飛ぶが――Andy Warhol(アンディ・ウォーホル)はどうか? Roy Lichtenstein(ロイ・リキテンシュタイン)はどうか?
これら〝Pop Art/ポップアート〟の旗手たちの(エポックメイキングという評価の固まっている)行ないにも、やはり、工業的な〝最終製品〟およびそのイメージが使われている。〝既製品〟を天才的に転用した、〝美の再構成〟といった意味合いが大きい。
だが、やはりボリキヨノリとは違うのだ、ボリキヨノリの作品は、多分に、その存在のほぼ全体が〝インダストリアル〟ではあっても、なんらかの〝製品〟の転用ではないようなのだ。
まさか‥‥初めて見るもの‥‥なのか‥‥?
やんどころなき血脈を感じさせる名を持つ彫刻家・母里聖徳の作品は、僕が〝これまで目にしたことのないもの〟なのかもしれないのだ。(だから、本稿を書く気になったのだ。そう、ひとつ直感的に思い浮かんだものが、ハンガリーの田舎で見た〝ある風景〟だったのだが‥‥どこかしら相通ずるものがあるかもしれないのだが‥‥もっと後で言う。言わないかもしれない)
〝材〟という問題
鉄なのだ。ボリキヨノリ作品は。
ブロンズではない。銅でもない。銀でも金箔が貼られているわけでもない。鉄なのだ。
鉄だぞ? 鉄で作られた彫刻に魅力を感じたことはあるだろうか? 僕はない。ついぞない。なぜか?
ミケランジェロが好き、快慶が好き――だからだ。『ピエタ』や『深沙大将』が大好きだからだ。
先に挙げたポップアートだとて、評論家たちがどう言おうと、〝芸術〟よりはそのまま〝ポップアート〟なのだ。感心はするが――、
魂を揺さぶられることがない
胃の腑を掴まれることもない
首筋がザワつくこともない
ルネサンス巨匠はトスカーナから運ばれた超高価な〝白大理石〟を、天才鎌倉仏師は大切に保管されていた樹齢数百年の〝巨木〟を素材に、見つめていると思わず――、
肛門をキュッとすぼめてしまう
ような名作を数多く生み出している。(下品表現? いや、正直に書きたいだけだ、し、英語で言うのだよ、Ass-clenchingとかGut-wrenchingとか、肉体的な表現を存分に)
紙粘土で作ればそれは紙粘土だし、ナンチャラで作ればそれはナンチャラなのだ。試作もしくは祖型としてならいいが、粗末な〝Substance =材〟に〝Spitits=魂〟が乗り移りたもうことはない。
ゆえに〝彫刻〟を名乗るのなら、金属ならばせめてブロンズだろう? 芸術たるには? ブロンズ彫刻ならば、原型である粘土造形が自由に行なえ、〝鋳造工程〟を経て、〝指先〟が意図した滑らかな曲面が強固な永遠性のある物体へと変化し、この世に生み出される。Rodin(ロダン)作品などがそうじゃないか。
(*鋳造――粘土の原型から石膏型を作り、型取りし、溶けた金属を流し込んで作る、かいつまんで言うと)
鉄という素材は、だから、「ふう~ん」程度にしか感心しないのだ。もう一度、なぜか?
ゴメン! 鉄だからだよ! 鉄棒や滑り台だ! チャリンコやクルマだ! ガードレールも鉄橋もビルの鉄骨も! なんなら戦艦だ拳銃だ大砲だ!
そんなありふれた鉄の、板や棒を溶接で繋げたり貼り合わせたりして、屋外の公園などに大きなナニヤラを造形したとて、〝工業〟の匂いしかしない。いや、その〝鉄臭さ〟を消せない。
鉄の〝匂い〟とは、反自然なのだ。だろう? 歴史を鑑みればわかる。〝自然〟を破壊し尽くしたのが〝製鉄〟なのだ。木をバンバン切り倒して燃やした。古代メソポタミアにおいてギルガメッシュ王が森の神フンババを殺したところから、人類は〝万物の霊長〟と自らを呼び知らしめ、〝科学〟を手に〝発展〟に向けて邁進しはじめたのだ。
鉄は、農耕の〝道具〟なのだ。戦いの〝道具〟なのだ。
鉄は、それ自体が、生活に関わっているのだ。
鉄は、土や石や木ほどに、芸術的素材ではないのだ。
鉄は、所詮は鉄――無味乾燥で、感情移入しがたい。だろう?
〝塊〟という問題
だが、ボリキヨノリ作品を眺め、しばらく観察したのち、うむむ? ややや?――わからなくなり、近所にあるなにやらにオシャレな廃校施設『Palette 』で『アーツトンネル』主催のもと行なわれていた(宣伝)個展会場で、彫刻家本人を問い詰めた。
わからないのはだから――、
「なぜ鉄に〝自然〟が匂うのか!?」
というよりも――、
「なぜ鉄に、この俺が惹かれるのだー!?」
である。本当にそのまま問うと、幾分困り笑みを浮かべた彫刻家は、芸術鑑賞におけるタブーを犯すことを僕に勧めた。
恐るおそる(ホントは嬉々として)ひとつを手に取ると――、
「ぬお?! 重っ!」
コブシ大の作品が、おそらく10キロはある。いや10キロは盛りすぎだが、それはずっしりと重い〝鉄塊〟だったのだ。
驚いて下腹がヒクついた。
「ややや?!」
鉄板や棒を組み合わせたような(たいていロボット的だったり箱舟的だったり機関車的だったりロケット的だったりする)イビツで得体の知れないキメラのような造形物ではないのだ。さらには、ブロンズ彫刻のような〝空洞〟構造でもない。
ど塊なのだ。
陸上競技の砲丸?‥‥のようでもある‥‥が‥‥〝顔〟がある‥‥いや〝顔のようなもの〟がある‥‥?
鉄塊の重みが背筋をピリピリと刺激し、口から疑問が噴出する。
どうやって作ったのか?
なにを考えて?
いったいどーゆーことだ?
――ある程度の理解に至るまでインタビューを三度行なった。
なにを規範としているのか? どんな信条、もしくは心情を抱いているのか?
――言葉になりづらいことを繰り返し問うてみたのだよ。ふふふ。
もうあれだ、一足飛びに僕なりの理解をひと言で言うなら――、
ファンタジー
なのだと思う。わからないか? 別の言葉を挙げるなら――、
祈り
になるだろう。わからないか? わからないだろうな。
わかるように、まず制作工程〝その1〟を説明する。おそらく、そんなものを見たことのある人は少ない。(僕も実際に見たことはない)
〝スクラップ〟という問題
あなたの知る〝スクラップヤード〟のことではない。町なかの廃品回収屋でもない。
ついぞ常人には立ち入る機会などない、〝鉄を生み出す〟場所――沿岸地帯に見かける、溶鉱炉そびえる広大な〝製鉄所〟都市――の片隅にある、〝不具合材〟や〝廃材〟なのだ。
なにが?
ボリキヨノリ作品の素材が――だ! 驚け!
いや、驚くもなにも、どう驚いていいか常人にはわかりようがないのだよ‥‥ふふふ。
ここでの〝スクラップ〟は、=ゴミではない。いや、不用という意味合いからはゴミなのだが、〝使い古され捨てられた〟という意味でのゴミではない。
火山のマグマを思ってみるといい。あのごとく赤く煮えたぎった溶鉱炉――〝鉄鉱石と石炭のドロドロシチュー鍋〟から流れ出たばかりの〝鉄〟なのだ、から、このスクラップ鉄は〝生まれたての鉄〟だ。
規格に合わなかったり、不可解な理由で弾け跳んだり、切って捨てられたりした〝新鮮ピチピチなスクラップ鉄〟の山に登るのである――いやむしろ海に、豊饒の海に、ボリキヨノリは潜るのである。おそらくニヤニヤしながら〝作品〟を拾い漁るのである‥‥。
だから、ボリキヨノリ作品に見られる曲線やディテールは、鉄が生み出される際にできた偶然のカタチであって、それそのものが、本来の製品化用途に適さない、人間には無用の、けれど産声を上げたばかりの、まっさらな〝鉄たち〟の姿なのである。
どうかな? かな? 少しはわかりはじめただろう? いや、今の今わからないことを言ったって? 言いました。そこが大問題――製作工程の〝その2〟だ。
〝さわらない〟という大問題
そう、「作品に見られる曲線やディテールは鉄が生み出される際にできた偶然のカタチ」だと言ったのは、ほぼその通りであって――つまり極力触らないのだ、ボリキヨノリは、拾ってきた鉄たちを。
この〝極力触らない〟というのが、(そういったアートムーブメントが過去にあったことを知っている人もいるかもしれないが、それとはあまり関係なく)、ボリキヨノリなのである。
なぜか? この作品を見てもらいたい。ここが入口だ。一番最初に僕の目をとらまえたやつだ。つぶさに見つめざるをえなかったやつだ。
わかるだろう? わからないか? わかってほしい。わかれ。僕は一目見て下腹を締め付けられたぞ? 英語では「It instantly wrenched my guts!」などと言う!
見つめられ、恥じらってないか? 身もだえしてないか?
この〝小女神〟でいまいち不服なら、これはどうか?
つまりそういうことだ。
手を加えるまでもない
――ということだ。
(〝手を加えていない物体〟を己の作品として発表することに疑問はないのか――という問題があるが、話はそこに向かっている。この作品を憶えておいてほしい。言わないかもしれない)
〝偶然〟という大問題
ここで、ボリキヨノリの制作における規範、ならびに信念をはっきり言葉にしてみよう。
偶然
――だ。なぜ〝手を加えるまでもない〟のか?
偶然、生み出される形に、〝自然の采配〟があるに違いない――ということだ。
言い方を変えよう。ボリキヨノリの言葉そのままのほうが、僕にもしっくりくる。
〝鉄〟の持つ〝精〟が、製鉄の工程において――、
自らを形作った
という見方だ。聞くなり僕ははたと思いつく――、
「火・木・土・金・水」は、古代中国の自然哲学『五行』の言う、「宇宙の一切万物の元となる五つの元素」のことである。
ほら、鉄が入っているだろう? ホモサピエンスが利用するようになるずっと前から、もっと遥か昔、地球誕生以前から、鉄は、宇宙そのものである〝元素〟のひとつだったのである。
ふむふむふむふむ‥‥ならばだ、それほどにピュアな万物の源に〝魂魄〟がないわけはないだろう? 我々がときおり、木や水や岩や空に〝ナニヤラ〟を感じるように?
またわからなくなった? ふふふ? 長文に付き合ってくれてありがとう。そろそろ締めに向けてちゃんとわかるようにする。(しないかもしれない)
〝これでいいのか〟という特大問題
30才半ばまで、日本の鉄鋼業界全体を巻き込み、国内外の有名アーティストたちを招聘しての大々的な企画展を精力的に手がけていたボリキヨノリは、突如制作をやめた。
作れなかったのである、30年間。
(僕が初めて出会ったのはそのモラトリアム期だ。彼は奇妙な大型防空壕のようなパブのマスターで、そこの展示スペースで、アメリカから帰ったばかりの僕は小さな絵画個展をやらせてもらった。髭面マスターはどちらかと言えば無口な人だった気がする)
これでいいのか‥‥?
〝鉄〟と〝鉄鋼産業〟と〝工業技術〟を軸に、大股で疾駆していた己の制作方針に疑問を抱いたのである、ボリキヨノリは。(代表作の工業機械による迫力ある制作工程もご覧ください)
ちなみにこのあたりが僕が一番好きな個所だ。
幼少のころから鉄に魅入られ、そこから自分が生み出す作品として〝抽象表現〟を追っていた自分への――、
これでいいのか‥‥?
懐疑と自省と、それにともなういつ終わるとも知れぬ苦悩があった。人間的じゃないか。自分に嘘をつかずに生きようとすれば、必ずこれにぶつかる。言い換えるなら、苦悩なくして新しいものの創造はない。作るのが〝楽しい〟だけで人の心が打てるか。
2021年に〝再開〟するわけだが、それはいわゆる〝開眼〟なのかもしれず、ボリキヨノリの心中にどんな変化があったのか、僕があれこれ言葉にしてみても、どうしても本人の思いとは乖離してしまうであろう。
だからキーワードだけ与えるにとどめる。それはモラトリアム期に始まった、終わることのない彼の研究課題でもある。
縄文時代と織部焼
縄文とは、言わずと知れた〝原日本人〟の姿である。謎の多い研究対象だが、少しだけ触れるなら、一万と4000年前の古から日本列島の地に生きていた人々のことで、狩猟採集生活を送っていたことはわかっていて、それが一万年間つづいたらしい。とするとそこには、平和や協調を重んじる特殊な思考――というか価値観があったのではないかと思われる。僕は宇宙観と呼びたい。彼らの遺した土器や土偶のデザインには、現代日本人にはとうてい思いつかないような‥‥ナニヤラを感じる。
焼き物については、僕もアメリカでプロ写真家をやりつつ陶芸彫刻も学んだ輩だから存分に知っているが、火をくぐらせることで〝土〟が変性し、永遠不変の物体に生まれ変わるあたりに、〝呪術〟や〝儀式〟のごとき得も言われぬ魅力がある、し、なるほど釉薬には〝偶然の美〟といった要素が多分にある。特に織部であることに関しては、武家であった「ウチの先祖が調べてみると実は――」というような話も聞けたが、面白すぎるので言わない。ボリキヨノリに聞いてみるといい。物怖じすることはない。存外にしゃべる。
〝ファンタジー〟という答え
〝おそらく〟を前置きに〝オリジナルの観点〟を発する勇気など一般の日本人にはない、が、僕は一般ではない。
アメリカでも日本でも、霊能者たちに声をかけられ何度も言われた〝鬼の眷属〟であるらしい僕の見るところ、〝自分の手を加えない物体を自分の作品として発表することへの疑問〟を抱えていた彫刻家の心を融かしたのは、おそらく、ゴミ海に生まれたこの子ではなかったか。
うわ! なにこれ?!
それだけでいいじゃないか。僕もそう叫んだ。さらに、少しだけ手を貸してやれば〝鉄の精〟はどこにでも顔を出す――ことに気づいたのだろう。僕もそう思う。(石や木の彫刻家がこういうことを言うだろう? 像は最初から木の中に埋まっている――的なことを?)
「こんな生き物がいること、こんな世界が宇宙にはあることを知ってもらいたい」
――ボリキヨノリがそう言ったかどうかはっきり憶えていないが、メモに残っているから、たぶん言った。僕もそう思う。
宇宙には、我々哺乳類のような〝炭素系〟とはちがう生物――〝鉄系〟の意識体も実体もいて、当たり前だ。いないわけはないさ。(AIは明日にもシリコン系生物になろうとしているだろう?)
つまり、ありえる妥当な〝答え〟として、ボリキヨノリの〝鉄たち〟は――、
ひとりの芸術家が研究と精進と苦悩の果てに到達した〝ファンタジー世界〟
なのだと言ってしまっていいだろう。うん、それがいい。
多数の〝わからない〟の中に、ひとつだけ〝わかる〟ことがある。
ボリキヨノリは優しい
――のだ。それは、ファンタジー世界の生みの親としてのあるべき姿であって、ひとりの求道者たる男が、長い修行苦行を経て到達した、当然の帰結――のように思えるのだが‥‥どうだろうか? ふふふ?
さらなる問題
〝ブルーム〟という鉄は羊羹のような形をしている。長さ1.2メートル、底辺35×40センチ――これで重さが1.5トンある。カバほどに重い。マグロなら1万人前をゆうに超える。あなたが少食なら2万食分かもしれない。
これは製鉄所で生み出される〝半製品〟のひとつであり、ここから様々な〝製品〟へと加工されてゆくのであって――ようは出来立てホヤホヤの〝生きのいい鉄〟だ。
2021年の復帰作となった大物連作、『鐵偶』は、この1.5トンを複数重ねていく。ド偶ではなくテツ偶だよ? 総重量6トンを超えたりする。アフリカゾウくらい。
〝鍛造〟技術で作った。
鍛造――鉄を業火で赤くなるまで夜通し焼き、巨大な〝プレス機〟なるもので圧しつぶすのだ。当然ボリキヨノリは自身の手ではなく、巨大工場でやってもらう。ビデオで観たが、そびえ立つ巨大なプレス機で暴力的につぶされ、火花を飛ばしながら徐々に表情を変えていく〝鉄塊〟の様子は、ものすごい迫力だ。
勇猛さにワクワクする一方、「ああ! ダメだダメだ! もうやめてくれ~!」的な、慚愧だか悔恨だか畏怖だかの念も湧いてきて、思わず手を合わせたくなる。
小さなコブシ大の『鐵偶』でも、500トンプレス機の力が必要だそうだ。一般家屋サイズの十分に巨大機械だ。
目や口(っぽいもの)などは、あらかじめ、〝圧しつぶした後どうなるか〟を計算して、削り込んでおく。もちろん、切削も自分の手でできるようなものではなく、相応の工場で、相応の機械を用い、ヘルメットをかぶった、免許を持っていたりする、それゆえに相応に気難しくもある熟練技術者にやってもらう。ちなみに〝ソリッドの鉄〟であるとは、そこらの他のアーティストにはおおそれと〝真似できない〟ことを意味する。素材も機械も使用不可能、たとえ使えても高価、危険すぎる――などなど理由はさまざまであるが‥‥そもそもそんな不自由な方法で制作をやってみようとすること自体が稀有であり‥‥あ、しゃべりすぎか。
偶然――という、制作におけるボリキヨノリの規範を何度も言っている。
圧しつぶしたときに出る、偶然の〝曲がり歪み〟や〝凸凹〟や〝シワ〟が、唯一無二の〝鉄の精〟の現出であり、それを操作するのではなく〝導く〟のが、ボリキヨノリの役割りであり、ゆえにボリキヨノリはまちがいなく〝作者〟たりえる――ということなのだと思う‥‥が、書いていて大した説明になっていないことに自分でも笑ってしまう。
ようはつまりは! 西洋かぶれの高尚ぶった‥‥いきなり品がない言い方だな‥‥ウホホン! ようは、西洋に倣った〝抽象主義〟や、(近頃大流行りの)打算的で矮小な〝私〟の表出ではなく、自己の出自も立ち位置も経験値も深く見つめ直した〝自己存在〟という源から、〝導き出すべきメッセージ〟を抽出し、世界中どこにもない、他のなににも似ていない、〝唯一無二〟を作ってしまえば、さらにそれが〝胸をザワつかせる〟ものたりえれば、〝胃の腑を揺さぶる〟ものたりえれば、それこそ〝宇宙を感じさせ〟、〝肛門をキュッとすぼませる〟ものたりえれば、それは〝芸術〟である――というのが、ボリキヨノリの辿り着いた制作のアプローチなのだと、僕は思う。(マジメ)
祈り――〝偶然を導く〟にあたり、おそらくボリキヨノリはこれを用いる方法をモラトリアム期に獲得しえたのだと思う。それに近いことを口にした。「方法」という表現が気に入らなければ、〝体〟という言葉になる。
覚り――のようなものかもしれないのだ。僕の知るかぎり〝覚り〟とは、〝すべてがわかる〟ことではなく、いかに〝自分が無知か〟、いかに〝人は矮小か〟、かつ〝宇宙は広大か〟を知り、頭も身体も〝ナニヤラに委ねる〟ことだと思うのだよ‥‥。
さらなる答え
いかがなりや? ひとりの彫刻家のことを少しはわかってもらえたのではないかな? 伝わってなかったとしても、言葉にできる限界まで来れたように思うから、あきらめはつく、くくく‥‥。
ともあれ! ボリキヨノリは今、もっともっと〝答え〟を導き出す機会を求めているのだ。最後に宣伝めいたことを言うが、正直な話、もっと見たいのだ、ボリキヨノリの作品を、僕は。僕にはわからないからだ。たとえばもっと大きなサイズにするなら、どんな〝鉄の精〟が出てくるのか、見てみたいのだ。
だれが読むかわからないが、なんでも持ち掛けてみるといい。地方自治体でもなんでも、文化芸術振興などにおける、たとえば環境彫刻として、〝作る〟機会をボリキヨノリに与えてもらいたい。
ドイツの著名な思想家ヴィルヘルム・フンボルトは言った――、
「人生に頂上はただひとつ――あらゆる人間的なものを味わい尽くそうと願うことだ」
名言だ。だが〝人間的〟だけに満足しないのが芸術家だろう。
だから、こんなことを言うのだ――、
「世界が目に見えるものだけでできているとしたら、こんなにつまらないことはない」
さて、だれが言ったか? わかる人はいるだろうか? 彼は詩人だったように僕の記憶の中にあるのだけれど‥‥‥ふふふ?
日が照れば暑かろう、風が吹けば寒かろう
ぷう〜っと‥‥もう読み終えてもらってもいいところまで書けました、けれど、これはボリキヨノリに頼まれたのではない〝僕の書き物〟だから、僕の本当の思いをちょっとだけ足す。むしろ本番だ。
キーワードは〝Empath/共感〟になる。
冒頭の「ボリキヨノリ作品を見て思い起こしたハンガリーの風景」とは、なんだったのか?
畑のなかに夥しい数のレーニン像が集められている風景
――がそれだった。共産主義終焉にともない民主化された中央ヨーロッパの国で、最初に行われたことのひとつが、公共建築物からの〝赤い星〟の撤去、〝レーニン像〟の撤去、「モスクワ通り」などの道路名を〝元に戻す〟ことだった。
威風堂々のブロンズ像が、畑のなかの、急ごしらえの粗末な囲いの中に押し込められ、ブタやヤギやニワトリや――まるで家畜のようにひしめき合い、うららかな陽光に照らされていた。
僕はこの風景に〝芸術作品〟を見た。
問題は〝どう見るか?〟である。
あなたならどう見ただろう?
滑稽? 悲哀? 勝利? 敗北? 歴史? 変遷? 不穏? 恐怖?
容易に答えは出ず、しばらく‥‥小一時間ほど考えた‥‥てんでばらばらにあっちこっちを向いた英雄像たちと同じように、うららかな陽光に照らされながら‥‥。
なぜボリキヨノリ作品に、直感的にこの記憶が重なったのかをわかりやすく言うなら、ようはつまりは、ツーワードで表せる――、
偶然と共感
ひとつには、それが〝偶然の産物〟であったことだ。何度も言った。なんなら〝無用〟というのもあったかもしれない。
もうひとつ、ここで初めて言うのは、観る者の〝共感能力〟が問われる――ということだ。
ボリキヨノリ作品にも、『畑のレーニン像たち』に通ずる、〝時代における存在理由〟があると感じたのかもしれないのであって、それはあながちまったくの的外れではなかったかもしれないのだよ‥‥。
なにを言おうとしている? こういうことだよ――、
人工知能やバイオジェネティクスを筆頭に、テクノロジーが驚異的かつ急速に進んでいる時代、10年先の世界の様相がまったく見えない今日、一番問われているのは――、
人間とはなにか?
であって、それは歴史的観点からの〝人類文明の見つめ直し〟であって、そんな喧々諤々談論風発のなかで、やがておそらく、もっとも尊重されてくるであろうものは――、
Compassion/思いやり
なのではなかろうかと、僕は密かに思っているのである‥‥そして――、
Empath/共感能力
こそが、それを生み出す大元の‥‥宝珠‥‥なのではないかと‥‥。
だからそれは〝原点に還る〟ということなのかもしれないじゃないか‥‥。
であるならばだ、〝思いやり〟を育んでくれるものとは、〝生きる〟において大切なものを教えてくれるものとは、いったいなんだったのか?
日が照れば暑い、風が吹けば寒い
雨が降れば歓声を上げて
兄と姉とボクは
濡れながら木の下に駆けこんだ
――そんな少年の日の〝ナニヤラ〟を、手のひらの中でずっしりと重いボリキヨノリ作品は、そこはかとなく僕に思い起こさせてくれるのであるよ。
そういうことだ。
どういうことだ? ふふふ?
長々と付き合ってくださりありがとう!
さて! 画を描こう! <了>
PS そうそう、とある(ムーミン谷の)山の中に、ボリキヨノリの〝鉄たち〟に会える展示小屋がある。もっと見せたかった変わり者の〝鉄たち〟がいる。ぜひ見つけてほしい。
sleepy cafe NICO 敷地内
Naniyara小屋
福岡県嘉麻市屏 1658-2
Tel: 0948-52-6303
E-Mail: sleepy.cafe.nico@gmail.com
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©2024 Kiyo “MAZKIYO” Matsumoto