wagamama「Strawberry Flavor Sick」 review
I.F.S.G.
「Strawberry Flavor Sick」と題したwagamamaのデヴュー作は、ゴスペルを髣髴とさせるようなコーラスワークとシンプルなギターリフで幕を開ける。
曲の全体を通じて、疾走感のあるドラムのダンスビートと、そのリズムを豊かに彩るキレのあるスラップベースをサウンドの柱に据え、気の向くまま攻めるような自在なギターと、艶やかな声色に高音域を巧みに効かせた魅力的なヴォーカルで、あっという間に3分35秒が流れてゆく。
その特徴を取り上げれば、ドラム中江太郎の一発目のスネアドラムが4拍目手前の16分裏で始まり、サビを盛り上げるリズムがディスコビート(4つ打ち・裏拍オープンハット)であることや、ベースshizupiのパーカッシブなフレーズが炸裂するスラップのグルーヴとクールなソロパートなど、リズムワークを支える楽器を惜しげもなく全面に押し出し、一方で、そんなリズム隊に対して、隙を縫うような絶妙なタイム感でフレーズを斬り込んでくるギターや、ヴォーカルRyokoの感情を揺さぶるハイトーンなシャウトなど、明らかにwagamamaのサウンドは、グルーヴを強く打ち出したエモーショナルなダンスサウンドである。ゴスペル〜ジャズ・ブルースを祖とするソウル/R&Bから生まれてきた音楽を礎とするサウンドであることを、意識的に、あたかも名刺代わりのようにこの曲で宣言する。
曲全体を彩っている壮麗なコーラスワークについても、同様だ。
wagamamaのコーラスは、主旋律のバッキング、Ryokoといちろーのコールアンドレスポンスとして登場するだけでなく、様々な混声が共鳴する文字通りのコーラスとして展開され、サビで繰り返される「I Feel So Good」の力強いハーモニーの厚みと一体感には神々しさすらある。バンドサウンドの中におけるコーラスの意義に改めてハッとさせられる。
「I.F.S.G.」の音に身を委ねていると、そのグルーヴに思わず身体が揺れてきて、美しいコーラスの響きとともに、えもいわれぬ心地よい感情で満たされていく。
ところが。
そんな風に思えたI.F.S.G.という感情は、曲のラストで確信的に一変する。
ーーI.F.L.S.(I Feel Like Sick) 何度目の「またひとりじゃん」って想いで気が済むの?
「I.F.S.G.」は、wagamamaがバンドとして産声をあげてから初めて世にリリースしたシングル曲であり、wagamamaの所信表明ともいうべき楽曲だ。
サウンドの表層を聴いていると、この曲はグルーヴを強く押し出しながらもどこか抑えが利いていて、でも、それがなぜかはよく分からず、ただただ「洗練された」「洒落た」ダンスミュージックであるかのように最初は感じる。
その一因は、詞が韻を踏みながら英語のように聴こえる巧みな語感をもって設計されていたり、リズミックな譜割りで日本語詞が構成され、サウンドの中に心地よく溶け込んでいるからだ。
しかし、歌われている詞をきちんと追っていくと、このサウンドが映していた表の顔はたちまち変貌していく。
ーーI.F.S.G. 誰にも言えるワケないheartで
ーーI.F.S.G. 帰るにも また刺さる朝 罪がチラつくの
この主人公が感じているI.F.S.G.とは、背徳的な感情だ。
ーー裏切りたいのまで見え見えの隙
ーー「3年になるあの人のキスもいい」
ーー好きになるとかウソ言えよ
ーー愛が中身から軽く見えるかい
ーー儚げなカラの心抱いて
ーー凍てつく胸の淋しい奥の灯 あっさり解かして入るなよ
ーー遊ばれたがる子供の笑みを恨むよ
この曲で歌われているI.F.S.G.は、身を切るような、自分で自分を騙すような、分かっていてもどうにもできないまま溺れていくような、きっとそんな感情だ。
成就しないことが分かっていながら、心の奥に澱む負の感情を抱えながらも、断つことができず続けてしまっているI.F.S.G.なのだ。
そんな感情に気づいたとき、曲中で効果的に挿入される笑い声や、思わず身体を揺らしてしまうような圧倒的サウンドグルーヴと、詞の深淵な哀しみとの落差に、私たちは初めて直面する。このダンスサウンドに秘められた本当の奥行きが立体になって見えた途端、「洗練された」「お洒落な」という修飾は影をひそめ、「切ない」という感情が一挙にその胸中に流れ込んでくる。
ダンスグルーヴの中に、切ないという感情が湧き上がる衝撃的な瞬間だ。
しかし、この詞とサウンドの落差は、単なるアイロニーやシニカルな表現のための対比が狙いではない。
それは、同じく詞の最後に表れている。
ーーI.F.L.S. (I Feel Like Sick) 何度目の「またひとりじゃん」って想いで気が済むの?
この主人公は、そんな自分のI.F.S.G.を終わらせなければならないことに既に気づき、その矛盾に葛藤している。ここには、苦しみながらも現実と向き合おうと闘っている人生がみて取れる。
哀しい感情を称えながらも、wagamamaの音楽は、生きること、愛することの悲喜交々をありのまま受け入れて包み込み、グルーヴィでエモーショナルなサウンドをもって寄り添うように、全身全霊で人生を謳歌する。
いみじくも、この曲の始まりが髣髴とさせるゴスペルがそうであるように。
皆で身体を揺らし、歌うことによって、人々を勇気づけ元気で漲らせたりするような、そんな力をもった音楽であるように。
実は、「I.F.S.G」には、その前日譚と解釈することができる楽曲がある。
それは、wagamama結成前夜。メンバー4人が初めて邂逅を遂げた運命的な楽曲「Do It Right feat. Ryoko」(CD版ではボーナストラックとして4人が初めて同じステージに立ったライブバージョンの音源が収録されている)。
いちろー作詞作曲プロデュースになるこの曲は、不義理と愛情との狭間で揺れるエモーショナルな葛藤が、これ以上ない切ない詞と、4人で奏でる初めてのアンサンブル、とは思えないような素晴らしいサウンドによって描かれる。
「I.F.S.G.」を、その後日談、あるいはRyokoの作詞からなるアンサーソングとして捉えるとすれば、ようやく今、愛に葛藤し続けてきた物語の主人公は、この素晴らしいダンスミュージックに包まれながら新たな一歩を踏み出したのだ。
長い夜が明ける。
あくまでもwagamamaに、やりたい音楽をグルーヴィに鳴らして人生を謳歌するという決意を胸に、wagamamaポップはまだ見ぬ世界へ飛び出した。
「Strawberry Flavor Sick」の主人公とともに。
Stand Up
ーーStand up! Are you ready?
ーーStand up! Don't worry
I.F.S.G.の華々しい演奏とは打って変わって、ギター一本、独りつぶやくような歌声に寄り添うタッチで弾き語りのように始まるマイナーコード。
このフレーズで表現されるのは、前曲から引き継がれる感傷。心に傷を負った主人公だ。
だが、それも束の間。
始まって4小節も経たないうちにヴォーカルRyokoの「Dance Dance Dance Dance」のハイトーンシャウトで、一気にダンスサウンドに引き込まれる。
wagamamaのバラードは、傷心の感情を包み込むときでさえも、ダンスなグルーヴとサウンドを貫く。たとえミディアムスローな味付けはされていたとしても、だ。
冒頭の静かな弾き語りで始まるフレーズは、作品全体に流れるストーリーを物語るための布石であるとともに、その直後に始まるダンスサウンドとの振り幅を持たせ、いわゆる一般的なバラード曲と「wagamamaバラード」とのコントラストをより一層引き立てている。
そう。詞にしてみたって、この曲の「Stand up」は、ただのバラード曲のStand upではない。
I.F.S.G.からの流れで聴くと、このStand upは、傷心の主人公が自分自身に向けて「立ち上がれ、私」と歌っているようにも一見思える(もちろん、そう解釈することもできる)が、よくよく聴いていくと、そうではない。「私」というよりも、運命的に(偶然に?)バッタリ出会った「君」に向かって、「私を踊らせて」「恋焦がせて」「終わってしまった恋に鍵をかけて」「忘れるくらいにキスをして」とことばを重ね、挙げ句の果てに、その「君」が「ねぇここまで Stand up for me」私のために立ち上がってよ、「You gotta love me」もう私を愛するしかない、と言い切られてしまう。
立ち上がるのは、「私」ではなく「君」なのだ。
傷を負いながらも、決定的なアプローチをかけて、積極的に次のステップに踏み出そうとしている辺りは、どこかちょっぴり危なっかしいが、憎めなくて、人間的で、愛らしい。
「Strawberry Flavor Sick」の物語の流れの中では、Stand Upはこのような解釈ができるが、実は、ライヴでは序盤の方に演奏されることが多く、このEPの中でも2曲目に位置している。
ーーStand up! Are you ready?
ーーStand up! Don't worry
ステージに立つRyokoをフロントとするwagamamaから、そう問いかけられているのは、客席のオーディエンスであり、この作品のリスナー。
ライヴの序盤、客席に向かって、「さぁ立ち上がって」「ダンス!ダンス!」と声を掛け、私たちバンドの「単なるハーモニー 感じて気ままに」「ねぇダーリン」「wagamamaなmeに恋焦がしてよ」と発破を掛け、最後に「もう君は私をーーwagamamaバンドをーー愛するしかないの」と、甘い声で囁かれる。
詞の中の「君」とは、wagamamaの音楽に触れ、今まさに「Strawberry Flavor Sick」を聴いている君なのだ。
wagamamaというバンドの楽曲、その音楽性が素晴らしいものであるという信念と威信に裏打ちされた、求愛アピール溢れるnumberである。
(number(=楽曲)でmemorizeするのに相応しい楽曲だ)
サウンド的には、ゆったりしたテンポとリズムの中に、ハネたスネアのフィルインをアクセントにしたドラムを屋台骨として、前曲と打って変わってヒップホップで韻を踏むように歌い上げるリズミックな主旋律、それと交互にハイトーンを抑えたメロウで艶っぽい表情をみせるヴォーカル(彷徨う心のうつろいと奥底で求める愛を囁くような歌声)、前曲のキレのあるスラップベースから2フィンガーの指弾きに変え、今度は息をするようなタイム感をもった音、成熟したグルーヴを放つスライドやオクターブ、「満ち足りないwagamamaなme」と視線をくれるようなプリングオフ&プルのフレーズでしっとりした色気を演出するベース、傷心に寄り添うような素直な進行を基軸としながらもソロやフレーズではラテンロックのような情熱的なフィールで、ダンスサウンドの熱量をカッコよく主張してくる鳴きのギターなど、ダンスナンバーながら、グッと年齢が上がったような落ち着いた曲に仕上がっている。
前曲からの流れを汲む詞は、失恋して傷ついて、ヤケ酒でも飲んで、飲み過ぎて少々おいたしちゃったりしながらも、私のことを愛してよと心が彷徨うような、傷心な日々を描くようなバラードに映るはずなのだが、音を聴いていると思わず心地よくて身体が揺れてしまう。音楽に包まれ、心癒され、むしろ温かい気持ちになっている。
wagamamaポップの哲学を、バラードで体現した最初の作品である。
Like
んーーちょと待ってダサぃ(なんか)
ーーという衝撃的な素ボイスで始まるこの曲は、このEPの中でも一番の爆発力、瞬発力、躍動力、創造力、語彙力、あとなんだっけ?……というくらい、名作、傑作、問題作である。
まずは、何も言わずに歌詞カードを見て、Ryokoと一緒に歌ってみてほしい。
音を楽しんでいる限り、決して複雑怪奇とか難解な曲には聴こえないし、むしろどちらかといえば馴染みやすいメロディでノリも良く、サビで爆発するスピード感が気持ちよくて、とにかくあっという間に終わってしまうという印象をもつ楽曲だ。
ところが、そんな音に合わせて詞を歌ってみた途端、Likeはそう単純な曲ではないことを痛感する。恐らく何度か聴いたくらいでは、たとえ音源を聴きながら、歌詞を見ながらであっても、フルコーラスで歌えるリスナーはいないはずだ。
この曲は、いったい何をやっているのか。
I.F.S.G.が、グルーヴィな中にもどこか抑えが効いた切ないダンスサウンドだとすれば、Likeはその真反対にあって、wagamamaのグルーヴがどこまで走れるかをとことん追求したかのような、大きな喜びに満ち溢れたダンスサウンドだ。
そう感じさせる仕掛けの正体は、韻や譜割りを駆使した詞とポップなメロディの融合にある。そのために、サウンド面の音数はできるだけ絞り込んだアレンジで、歌とコーラスを聴かせることに注力し、また、そうすることでサビの爆発力を増している。
超絶ぶっとんでハイテンションなLikeの詞に仕込まれているのは、これでもかと詰め込まれた語感のマジックの数々。
ーーWhat do you want? あーもうどうでも良ッ
「良ッ」という日本語の思い切った使い方には、過去と決別した主人公の痛快な感情が乗っているわけだが、楽曲の頭から英語と日本語が韻を踏んでくる。
ーーたまに考えりゃ変わるかもなんてあざといShoot a gun
ここは、いわゆるポップミュージックの文法で作られたメロディに則った歌の中に、突如、レゲエ(テンポが早いからヒップホップに近いが主旋律のフィールはレゲエか)的なアップダウンの抑揚が登場し、詞……というより、リリックが音と一緒になって踊り跳ねる。
ポップミュージックの中で、こんな一文をレゲエ的抑揚にハメようなどとは思いつかないだろう。
ーーGet back まるで モデル walking
ーー案外我美人 カモンベビッ 思いどおりスマイリー
詞の譜割りは比較的素直なはずなのだが、「まるで」「モデル」「walking」がリズミックに並ぶだけで「まるで」が日本語を超越した語感に聴こえてしまう不思議な言葉のリレーになっている。
「案外我美人 カモンベビッ」に至っては、一見、中国語か、日本語か、はたまた造語なのか、何語で読み解けばよいのか視覚上は惑わされてしまうも、「我」「美人」「カモン」「ベビッ」で符割され、トータルの語感としてはハネた英語詞のように聴こえてしまう発明に近い作詞である。
ーーHaッ!give me 愛、断食
捨て去れheart×2
ごあいさつyap×2 なん(ってこったい ああー)
この2コーラス目の始まりも、日本語詞の限界に挑んで、走り幅跳びでいえば砂場を軽々と超えてしまったような大田区…もとい、世界新記録的な詞である。
はっぴいえんどの「風街ろまん」を代名詞として始まった日本語ロック、そして日本語ポップの21世紀的到達点と評価できるくらい衝撃的な詞であるが、素晴らしいのは詞だけではなく、このフレーズを血肉にして歌いこなしているヴォーカルのグルーヴと表現力である。
ーーなんて主役の私はここら辺でwake up 反射するmirrorにoh yeah〜say hello 手を振り I like this
「I like this〜」と歌い上げるサビで一息ついて(サビで一息つくのも愉しい感覚だが)、その直後、ドラムの16ビートで一気にリズムが加速し、唸りをあげるベース、サイケに踊り爆ぜるギターリフの酩酊感あるグルーヴとともに、突如ラップ調の抑揚が「なんて主役の私は」から始まる。これは「oh yeah〜say hello」まで続くが、「手を振り」で再びポップミュージックに戻ってきて、「I like this」の主旋律で解放されるところで、楽曲のボルテージが頂点に達する。
ーーoh yeah〜say hello 合致 We are meant to be
ラストのサビでは、「合致」という日本語、日本語の中でも2字熟語が唐突に現れ、聴感上は、「Gotcha」又は「got you」、すなわち、わかった!了解!という英語のようにも受け取れるし、合致、つまりはピッタリ合ったという意味にも受け取れるが、いずれにしても「We are meant to be」私たちはそうなる運命なんだ、というメッセージに繋がるという、意味を含めて日本語も英語も超えた詞の世界が最後に繰り広げられる。
これこそが、正真正銘のmine 。
私たちがやりたいのは、とてつもないグルーヴと、言語すら超えたことばを音に乗せ、正真正銘に我がままのサウンドを創り上げる、そんな音楽。
流行り廃りに左右されるのではない、実在するかどうかも分からない仮想顧客に縛られるのでもない。
こんなwagamamaな音楽が好きなんだ!
曲中、幾度となく繰り返される「I like this」は、そうした快哉を叫んでいるように聴こえる。
この、自分が本当に好きなものを好きだと叫ぶ解放感、人の喜怒哀楽でいうところの「喜び」の感情を表現するために必要なのは、語感。Likeに込められたのは、魔法のような音と語感のオンパレードだった。
語感が大事という信念は、この後発表されるwagamamaポップの到達点「うぇい」に繋がっていく。
I.F.S.G.で打ちひしがれ、Stand Upで彷徨った魂は、これが好き!と胸を張って言える運命の人とついに出会えたのだろうか。
少なくともいえるのはーーLikeを聴いた私たちは、もう既に出会ってしまっているということ。
合致する、
そうなる運命だった音楽と。
NO! NO! NO!
ついに運命の人と出会えた主人公は、縋りつこうとしてくる過去と対峙する。
それは、I.F.S.G.で酷い目にあわされた元恋人であり、同時に、成就することない想いを必死で追い求めていた自分でもある。
「I Like this」を繰り返して高らかに「私」を宣言した主人公は、この最後の曲で、どうかしていた過去に「No!」を突きつける。
その数、明るく楽しく踊れるテンションで60回。
喜怒哀楽でいえば、爽やかな怒りか。
曲中、挿入される元恋人からのスマホ着信を知らせるバイブレーションのSE(何度も何度も聞こえてくるこのノイズが絶妙なタイミングで何とも未練がましく鬱陶しい!)に対し、終盤、ついに応答したRyokoの「いまさらだろ」の一言に込められた怒りの表現が素晴らしい。
No!No!No!を高らかに繰り返し、完膚なきまでに過去を成敗。
古来からポピュラーな仇討ものかのような痛快な世界観で、「Strawberry Flavor Sick」の物語は大団円を迎える。
この曲は、本作品4曲の中では最も素直な、スタンダードで王道なダンスナンバーといえる。
それは、一曲目I.F.S.G.と対照してみても明らかであろう。
まずベースの音は、I.F.S.G.ではスラップを基調としたcoolを目指した演奏になっていたのに対して、No! No! No!では、ベースは指引きで低音をしっかり支えながら、リズムを引き立てるオクターブをさり気なく挟んだり、粋で心を惹く高音域のフレーズが登場するなど、そのラインは鳴いている。特に2コーラス目、ドラムとタッグを組んで突き進んでいくようなメロディアスなベースラインでサビに向かってグイグイ引っ張っていく場面では、このリズム隊の腕力を見せつけるような奔放なプレイに触れることができ、一言でいえば、その格好良さはgroovyである。いわゆるダンスサウンドと言った場合の一つの王道的なイメージを体現したような演奏で、ベース一本だけでもとてつもないグルーヴを放っている。
加えて、ドラムは、I.F.S.G.で見せたディスコビートと双璧をなすくらいダンスサウンドには欠かせない16ビートで グルーヴを厚くする。ハットの粒立ちが綺麗な演奏で、スティックが接地するときの表情も豊か。ベースと相まって2コーラス目から本格的に始まるミディアムテンポの16ビートは、街中から高速に乗ったドライヴカーがグッとアクセルを踏み込んでスピードを上げ、車窓の景色がどんどん後ろへ流れていくかのような気持ち良さがある。ビートの腰が太いため、2コーラス目後半でメロディが展開したときのちょっとしたトリッキーなスネアが極めて効果的なスパイスとなり、グルーヴをより際立たせる。手数ではない、リズムから生まれるグルーヴで楽曲を彩っていくような演奏だ。
これだけでも十二分なのに、さらに追い打ちを掛けるのはギター。サビに入るまで、ピアノとベースとヴォーカルの主旋律が作り上げようとしている音のストーリーとは全然違う方向を向いた16分フィールのぶっ飛んだフレーズを弾き、歌とメロディの展開を聴いているのだろうかと疑いたくなるくらい、AメロからBメロまで一貫して同じリフを繰り返している。どうしてこのリフを思い付いて、こんなにハマるのか不思議に思うが、その疑問も2コーラス目に入ると納得に変わる。このリフは、先ほどのドラム、ベースと絡み合って16分の目まぐるしい音のグルーヴに化けるのだ。ダンスミュージックの真髄のようなサウンドを構成する、めちゃくちゃカッコいいギターである。その後、サビから打って変わるファンクなカッティングに至っては、言わずもがな。ベース、ドラムとはまた違う角度のグルーヴで、ギターが華を添えている。
そして、極めつけは、ヴォーカルだ。
No!No!No!は、アップテンポな曲ではない。詞の中に韻が巧みに用いられているが、全体にわたる訳でもない。本作品4曲の中ではスタンダードな進行のミディアムテンポな楽曲だ。このテンポの曲でグルーヴを作ること、身体が揺れるような歌を歌うことはそう簡単ではない。Ryokoのヴォーカルの強みの一つは、ミディアムテンポの曲であっても、身体を揺らせてしまうようなリズミックな語感を持った歌唱力だ。恐らく彼女はアコースティックギター一本でこの曲を弾き語りしても、このグルーヴを歌うことができるだろう。素晴らしい演奏に囲まれている以前に、彼女自身の芯にこのグルーヴがあって、声を楽器とするヴォーカルを演奏している。そんな印象すら受ける。
声を楽器と呼ぶならば、コーラスワークも外すことができない。I.F.S.G.も No!No!No!もそうだが、時にはハーモニーするように、時には主旋律と呼応するように、時には楽器のメロディを奏でるように、時にはゴスペルのように、高音と低音、シャープとフラットで歌声が重なり音の厚みが増すようなコーラスが全編にわたってアレンジされている。
コーラスワークの美しさは、ダンスサウンドを標榜するwagamamaポップの特徴の一つであり、大きな強みでもある。コーラスを大切にしているのは、コーラスパートも含めてバンドの多くの曲を作曲するいちろーの信念、もといwagamamaの信念のように感じる。心から歌うことを愛しているに違いない。
このようにコーラスも含めて、ヴォーカル自体のグルーヴの素晴らしさはもちろんであるが、さらにこれを強靭なグルーヴとしているのは、やはり詞だ。オープニングのシークエンスからして、非常に考えられている。
ーーYou gonna be shaken off But 急にくるphone call
冒頭の2小節から、とても心地よい英語詞のフレーズが展開される。このメロディに乗ると、「急にくる」の日本語が最早英語のように聴こえる。
すると、3小節目は日本語詞のはずなのに、英語のような流れる語感をもって聴こえて来る。
ーーろくでなし n回目の誓わない再愛
冒頭2小節をあえて英語詞で導入し、そのリズミックな語感を耳に残したまま、メロディをリフレインする3-4小節目に日本語の「ろくでなし」、"n"というアルファベット、「誓わない」「再愛」を置くことでその語感を再現している。
ーー優雅な朝 台無し爆発寸前fuck boy
ーー王子とくるまる最中 嫌いもう邪魔虫様
5-6小節目は「You gonna be shaken off But」の韻を踏んでいるフレーズで、7-8小節目は日本語しか登場しないのに語感的には英語との差異が見えなくなってしまう。
韻の強さということでは、サビでも「I」「相(手)」「愛」「会い」「酔い」という韻を踏んでいるが、語感だけでなく、カラフルなお色直しをするようにその意味を全て異にしながらも、物語として全て繋がっている。
wagamamaにおけるRyokoの詞は、全編を通じて、語感、意味、韻、様々な角度から日本語の言葉が吟味され、その曲のメロディとフィール、コンセプトにマッチするよう綿密に設計されており、歌詞と併せて曲を聴き込んでいくほど、巧みな言葉を置くことに心血を注いでいることが見てとれる(彼女がソロとして活動してきた楽曲と比べても、その手法の違いが明らかだ)。
No!No!No!のMVは、この点に着目して、流れる歌に合わせて、詞がスマホ画面上でフリック入力されていくという映像で構成されていて、詞をヴィジュアル化することによって、サウンドと相まったときのRyoko詞の魅力を非常に分かりやすく如実に伝えていて面白い。このMVはshizupiが発案し製作したものということだが、wagamamaというバンドはどれだけ才能が集まっているのかと畏れを抱くとともに、詞が重要な位置を占めていることをバンドとしても確信的に発信していることが分かる(途中で何度も掛かってくる元恋人のスマホ着信の登録名が「ASSHOLE」であるところも笑えるし、ラストの演出もスマホならではの現代的な痛快さで締め括られ、舌を巻いてしまう)。
作品の最後に用意された王道のダンスナンバー、No!No!No!。
それ故に、この奇跡の4人の基礎体力の高さ、力が合わさったときの爆発力、奏でられる音の凄まじさと素晴らしさが、よりダイレクトに伝わる。
魅力を語り出すと言葉は尽きない。
wagamamaは、shizupiのベース、中江太郎のドラム、いちろーのギター、Ryokoのヴォーカル、4人のグルーヴが四位一体となって、このポップサウンドを作り上げている。
ライヴ終盤でのメンバー紹介のように、最後の曲でそんなことを表明し、お祭り騒ぎのような賑やかな余韻を残して、「Strawberry Flavor Sick」は幕を閉じる。
身体を揺らして、踊れる音楽に身を委ね、ありのままに儘ならぬ人生を歌えば、兆しを胸に生きていける。怒りも喜びも楽しさも哀しみも、全てをひっくるめてポジティブなエネルギーとして昇華することができる。
古来からダンスミュージックに宿るそんな音楽の力を、wagamamaは 21世紀を生きる私たちに思い出させてくれる。
グルーヴィに人生を謳歌して、私たちの心に寄り添う現代最強のポップバンド。
「Strawberry Flavor Sick」 EPのジャケットのデザインも、そんなメッセージを伝えているように感じられ、とにかく、そのはじまりに触れられた興奮でいま私は大いに奮えている。
2023.5.12
名人