
辻村深月「かがみの孤城」読後感
他にも読まなければいけない本は沢山あるのに、辻村先生は一度読み出すと寝食を惜しんで読みたくなる、そんな作品ばかり。9作品目。
とある理由を抱えて「中学校に通えない」子たち7人が、ある日それぞれの自室の鏡を通して1つの場所に集められるという物語。
まず読み始めて思ったのは。
過去に、不登校になってしまう子の気持ちを考えたことがあっただろうか、と思った。
無かった。
小さい頃から仲の良い友達に恵まれて、誰とでも打ち解けることのできる能力を母に育んでもらい、(実際に打ち解けていたのかは相手に聞かないと分からないが)友人関係に悩むことなんて殆ど無く生きてきた。
学校に何かしらのトラウマがあって行けなくなってしまう子たちにとっては、外に出ることや、同じ中学の子と遭遇しないかといった本当に些細にも思えるそんなことが、ストレス因子になってしまう。それが特に、多感な歳の子には、本当に可哀想な出来事に思えた。
『言葉が通じない、と絶望的に思い知る』という一文。
私の界隈ではよく、「あの人とはプロトコルが違うから、仲良くなれない」と言ったりする。これは相手を非難することもなく、改善を促すことでもない、ただ「合わなかっただけ」と理解するための言葉。
大人には、沢山の選べる環境があるので、合わない人を合わない、と切り捨てて、新しい関係を築く方へシフトできる。
でも子どもにとっては、同じ学校の、同じクラスの子たちと「合わない」からと言って、他の環境を選択する自由が基本的には無い。共存のために、どちらが良い・悪いといった議論に発展しがちなのかなとふと思った。
『私、ここに来てる間だけは普通の子みたいになれて、本当に嬉しかったんだ』
ストーリーの中で幾度となく出てきた「普通の子」という表現。
少なからず、不登校になった子たちは、自分のことをそんなふうに責めているのですね。学校内で受けた仕打ちですらきっと悲しいことなのに、自分でも自分を責め、時には親からも罵られる。
「不登校である」という、無関係な者から見ればただ状態を表すその一言の裏側には、あまりにも居た堪れない、二度と取り戻せない貴重な年代の切ない感情が含まれているということを、もう少し考慮できる人間にならなければいけないなと思えた作品でした。
それにしても、ここでは言い表すことのできない繊細な感情の描写、設定の秀逸さ、伏線回収。。。「代表作」と言われそうなレベルの作品を、一体何作品お持ちなのか。辻村先生、天才すぎます。