土門蘭さんの「死ぬまで生きる日記」を読んだ
「楽しい」や「嬉しい」という感情は味わえるのに、どうして「死にたい」と思うのか。
著者、土門蘭さんが二年間にわたって受けたカウンセリングの記録を軸にしたエッセイ。
読みながら所々共感したり、私自身も内側を深く潜り、古い感情を拾うことになる。それを眺めたり気づきが起きたりしながら読んでいった。
所々で涙が止まらなくなったりもした。
この著者と全く同じではないが、似たような感情はわたしにも経験がある。同じように感じている人がいると知って安心したというか、嬉しかったというか。読めてよかった、と思った。
わたしも「死ぬまで生きる」人間のひとりだ。
本の中でも書かれていたが、常々「死にたい」という言葉はざっくりしすぎていると思っている。
解析すればもっと別の、詳細な本音がでてくるはずだと。
わたしの場合、30代の初め頃から、何かの拍子や、単に体調が悪い時、はたまた女性ホルモンの波に飲まれたときなどにふと脳が「死にたい」という言葉をテロップで流してくることがあった。最近はだいぶ減ったが、30代初めの頃はわりとあった。胸と頭がずんと重くなり、先のことを考える余力がなくなる。
「まただ、ハイハイこれね。」と静観する。
頭をすっぽり暗雲が覆い、通過していくのをただ待つ感じ。
ただ、私の場合の「死にたい」という言葉が意味することは、別に本当に自分の体を死なせたいのではない。翻訳すると
「思わず(死にたい)と短絡的な言葉を使ってしまいたくなるほどに、生きていくのがしんどい」である。
ただ、「しんどい」がそこにあるだけ。
しんどいね、と自分で寄り添っていれば、それは時間と共に過ぎていく。(この行為を「マザーリング」というのだとこの本で知った。自分の感情を解決しようとせず、否定もせず、ただありのまま受容すること。マザーリング、いいな)
美味しいものを食べれば、その暗雲は薄くなり、去っていく。
希死念慮というほどのものはなく、ぜんぜん死ぬ気はない。
というか、単に死ねない。生きるしかできない。家族や友人が受けるストレスを想像すれば、なおのこと。
死にたいと感じることも絶望も無念も、生きているからこそ味わえる醍醐味だと思っている。それだけ生きることに一生懸命な証だと。
昔どこかで読んだ本で、もし人が自分で死んでしまうと、お迎えが来ない、というようなことが書いてあった。肉体を魂の乗り物だとして、ゴール地点(寿命)に辿り着く前に途中でその乗り物から自分の意思で降りてしまうと、永遠に誰も何も迎えにこないのだ。
そしてもし次に転生することができたとしても、今の人生よりも更にハードな課題を設定して人生を選ぶことになると。
それが本当かどうかはどうでもよく、わたしはその話に妙に納得いっている。だからそんな極めてコスパが悪いことはやってられない。生きるより地獄じゃないか。
それなら、どんなにこの人生を上手くやれなくても、満喫できなかったとしても、自然に寿命がやってくるまで息をし続ければいいと思っている。
読み終わった翌日、私も少し螺旋を登ったような感じがした。カウンセラーさんの言葉が私の記憶や傷にも触れ、著者が少しずつ元気になっていく体験を追体験していくうちに、なぜか私の心にも少し温かい力が宿った感触がある。
そして、なんでもいいからわたしも自分のために言葉を書き続けていたい、と思った。
まとまっていなくても、書く。うまく書き上げることが目的ではない、書く喜びが目的。
近頃書くことが何も浮かばなかったから、久しぶりに言葉を出せて嬉しい。
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