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【1081/1096】忘れないこと
自分が加害をしたことは、ごそっと忘れて他人事のように話せるが、自分が被害に遭ったことは決して忘れることがない。
忘れようとしても忘れられないから葛藤するのである。
斉藤章佳先生の新刊を読んだ。
性暴力被害を受けたことのあるにのみやさをりさんと、斉藤先生が取り組んでいる加害者更生プログラムに参加している性暴力加害者との往復書簡である。
にのみやさんがすごい。
もうなんか、そうとしか言えない。
この手紙とやりとりしたのかと思うと、気が遠くなるし、私がにのみやさんなら、このような返信が書けるだろうかと自分に何度も問いかけながら読んだ。
加害者と被害者の非対称性がほんとうに酷い。
しかし、これはどうしようもなく非対称である。
加害者は自分の加害を忘却、過小評価することができ、被害者のことを知らずにすむことができる。
しかし、被害を受けた側はそのすべてから逃れられない。
私が加害者臨床について学んだのは、なぜ、わたしがそのような目に遭わなければならなかったかを解明したいという切実さからだった。
それでも、傷がまだ十分癒えていないうちは、学習するだけで具合が悪くなって寝込んだりしたものだけれど。
記憶の一部を取り出して、切り取って捨てられればいいのに、と思ったことは数知れない。
あのときは、記憶があるから苦しいのだ、と思ったから。
語ることでしか回復しないことがある。
それは本当にそうだと思う。
被害について語る言葉をもたなかったとき、それはなかったことにされる。
そのことは、森田ゆり先生から学んだ。
自分自身の言葉を取り戻さないといけない。
修復的対話というのは、自分自身の言葉を取り戻した同士でやることに意味があると思った。
けれど、その対話をとおして取り戻していくということもあるだろうと思った。
こういう取り組みをしている人がいる、ということがあるいは希望になるのかもしれない。
では、また。
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