【224/1096】期待に応える
224日目。ご近所のごみの当番を忘れてしまいがちなので、子どもに覚えておいてほしいとお願いしたら、昨日も今日も教えてくれて、なんてありがたいのだろうと思う。そして、感謝を伝えると、喜んでいた。それも嬉しい。
覚えていてくれる人がいるというだけで心強い。
「誰かに何かを期待されて、それに応える」というのは、それが過剰になると、とてもしんどい。
それに常に期待されていると言う状態になると、それは自分に焦燥感を掻き立てることになって、苦しくなる。
がしかし、期待をまったくされないのは、さみしいものでもある。
子どもの頃、何かを期待されてそれに応えられないと、
すごくみじめな気持ちになった。
そのみじめな気持ちになりたくないがために、期待されないようにふるまった。
最初はわざとやっていたかもしれないが、だんだんそれが普通になる。
すると、相手が諦めて見切る。
見切られると、期待はされなくなるが、うっすらずっと無視されているような感じがした。
そうすると孤独になり、自分の中の安心が消える。
最近は、他人からの期待に応えるのではなく、
自分で自分に期待をするというのをやっている。
自分にはこれができると期待をかけてやってみる。
それは、自分の中に安心がないとできないものだなと思う。
CAP(子どもへの暴力防止)プログラムでは、人権を教えるときに「安心」して「自信」をもって「自由」に生きる権利と教える。人間が尊厳をもって生きるためになくてはならないものだと。
この権利が奪われると、「恐怖と不安」「無力感」「行動の選択肢がない」状態になる。
これは、いじめ、虐待、パワハラ、セクハラ、痴漢行為、性暴力、誘拐などどんな形であれ、暴力行為を受けた人に共通する心の状態である。
「恐怖と不安」があるときは、「安心」ではないし、
「無力感」は「自信」がない状態のことだし、
「行動の選択肢がない」とは「自由」でないということである。
逆を言えば、人を
「恐怖や不安(安心でない)」「無力感(自信がない)」「行動の選択肢がない(自由でない)」状態にするのが暴力であると言える。
人権がそれがなくては生きられないものであるとすれば、人権意識とは「自分を大切にする」ことである。
自分の心とからだを大切にすることだ。
「自分の存在はなによりも尊い」と思えるだろうか?
そんなことを思うと、おこがましいとか、ずうずうしいとか、利己的だとか思わないだろうか?
かつて、私は思っていた。
自分よりも相手を大事にしなさい。
自分の気持ちを通すことはわがままだ。
自分を犠牲にして他者に貢献することはよいことだ。
そのように教育を受けてきたからだ。
しかし、現実に、自分を大切にできないうちは、他人を大切にすることなどできない。
自分を愛せない人は、他人を本当には愛せない。
自分は自分らしく人間として生きたいのだという想いのない人が、他人の人間性を尊重するなどできない。
自分がそれを持っていないことを、持っている人に対して羨む、妬むほうが先にくるからである。それは攻撃または防御であり、自分を大切にすることにつながらない。
最近強く思っていることのひとつに、「ゆるし」は、回復の後にしか来ないということがある。
自分が回復する前にゆるすなどということは、土台無理な話なんだと実感した。(これはまたいつか別途書きたいと思うけれど)
まずは、自分を大切にすることからしか始まらないのである。
そして、自分を大切にするベースは、安心にある。
「どんなときに安心するか?」
「どんな時に安心した気持ちになるか?」
「誰といると安心か?」
その感覚が育ってから、自信や自由につながっていく。
不安でいっぱいで安心など感じられない時は、安心の感覚がわかればずっと安心でいられるからそれが欲しいとなる。
けれど、安心とはベースのことであって、常にずっと安心の状態でいつづけられるというわけではない。
安心という感覚がわかっていて、そこに戻ってくるというだけである。
安心があるから、勇気が出せるのである。
何かに初めて挑戦するとき、安心して飛び込むというのはなかなか難易度が高い。ほとんどあまりない。
勇気をもってこわいけど飛び込む、やる、という感じではないだろうか?
そのときには、不安や恐怖もあるかもしれないが、ベースに安心があればそこに戻ってこられる。
自分に期待をするというのは、自分がそこに飛び込んで、やってみることができると信じることに似ている。
わたしはまだまだその期待を裏切る。
そこに飛び込まない。
やらない。
というのは減ったが、
やってみたが、そこそこでやめる。
こんなもんだろうと見限る。
というのはまだまだやっているなと思う。
そんなとき、自分をなんと甘ったれているのか!と思う。
実際、甘えているのである。
安心をつくる甘えをやっているのだ、と気づいた。
でも、安心はもうあるのだから、次に進まなければいけない。
「自信を持って、行動を選択する」のである。
行動を選択するとき、
「○○してはいけない」とするのではなく
「・・・したらどうだろうか」と行動の選択肢を考えることが重要だ。
この・・・したらどうだろうか?は創造力が必要だ。
「○○してはいけない」とするのは簡単なのだ。今あることを否定すればいいだけだから。
「・・・したらどうか?」は・・・を創造する必要がある。
これを自分ではなく、他人にするときには、その相手の立場に立って考えることも必要になる。
自分で自分に期待して、「・・・したらどうか?」と選択し行動して、その責任を引き受け、また次の選択をする。
そうすることで、人はエンパワメントされる。
自分で選ぶということは、しんどいことでもある。
でも、選ぶときに誰かに助けてもらってはいけないということではない。
それに、もし選んだ道が違っていたなら、修正してまた新しい選択をすればいい。
迷いや不安や痛みを経験しながらも、自分で自分のことを大切にしながら、新しい選択をし続けていくことを引き受ける。
その選択をし続けられる自分でいるということが、私が自分の期待に応え続けることなんだなと思った。
では、またね。