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知ってるふり

自分の癖の一つに、「知らないことを知ってる風に装う」というのがある。今はだいぶましになったのだけど、それでもまだやる。
「知らない」というのが恥ずかしいとか、負けたくないとか、バカにされたくないとか、いろいろ理由はあるけど、すごく意図してそうしているというよりは、反射神経のような感じで、反応してしまって、あとから、ああ、正直じゃなかったなあと思ったりする。
知らないことがあるのは当たり前だし、知らなかったからと言ってバカにされたりしないと知っている。何より自分が自分をごまかした感じがすごくいやだから、やめたい。だけど、やってるときは反射的にやっているので、やる前に気づくのがなかなかできない。まだまだだなーと思う。

知ってるふりというか、知ったかぶりというか、とにかく、わからないとか知らないとか言えないのは、幼少期の記憶によるものが大きい。わたしの両親は、「知らない」ということをものすごくバカにした。なので、バカにされないために知っているふりをしてごまかさなければならなかった。だから、そこに長けてしまったんだなと思う。特に世間の常識を知らないことをすごくバカにする人たちだったので、わたしは小学生の頃から、冠婚葬祭事典だの、マナー事典だの、エチケット事典だのの分厚い本をなんども読んで、こういう時にはこうする、という正解を暗記していた。
覚えたことが役に立つこともあったので、すべてが無駄ではなかった。だけど、あんなに必死に覚えて、ちゃんとしなくちゃいけないと思っていたことは、けっこうしんどかったな〜と思う。母は何よりも世間体が大事な人だった。わたしより世間が大事なんだ、と思っていた。だから、わたしは自分で考えるよりも、その正解を探すことの方が大事だ、ということになってしまっていた。自分で考えて、こうやりました、というのは受け入れてもらえないと思っていた。子どもの頃はここまで自覚的ではなかったけど。

思い出してみると、わたしの父は知ったかぶりだった。
知らないと言うとか、人に尋ねるとか、誰かに頼るみたいなことは一切しなかった。
だけど、明らかにこの人知らないな、わかってないなと言うのは、すぐに伝わるもので、知ったかぶりをして、またその知ったかぶりしていることを正当化して、滔々と話すのを聞くのが本当に嫌いだった。
ものすごくいやだった。
人に話している時とか、一緒にいるのが苦痛だったし、死ぬほど恥ずかしかった。間違っていることを、いかにもな風に話すのが、もうほんと嫌だったなあと思い出す。間違っていることが恥ずかしくて、指摘すると、激怒された。父が激怒すると、おさまるまでが大変で、それを対処するより、恥ずかしいのを我慢した方がましだと思って、大抵は我慢したのだけど、それはあんまりだと思うこと(事実と違うことはやっぱり訂正した方がいいと思っていた)は、言わずにはいられなくて、つい言ってしまい、父を激昂させた。言った後に、後悔するんだけど、でも、わたしは間違ったことは言っていないのに、とわたしの中にモヤモヤしたものが真っ黒く残っていった。

こう言う、いわゆる対処する方法みたいなものは、学んでいるようでほんとうには学べてない、と思う。だいたい腹落ちしない。そもそも腑に落ちないことを頭で言い聞かせているだけだから、「つい」みたいな繰り返しをするんだと思う。だけど、何度も何度も繰り返し体感はしているので、身体は反応として覚えている。こう言う反応が出た時は、こうする、と言うのはインプットされている。
これを、アンラーン(unlearn)する必要がある。この反応が出た時に、わたしは知ったかぶりをしなくて良いのだ、と言う体験をし続けていく必要がある。長年かけて身につけていて、トラウマ的なものでもあるので、なかなかアンラーンしないけど、自覚して、自分をととのえて(神経をととのえる、呼吸を観察するなどやる)、自分に気づいていくと、だんだんそこが癒されてきて、手離れていく。

バーンと一気に突き抜けるような時もあれば、じわじわゆっくり、やってもやっても手応えがないような時もあるけど、地道に自分に向き合い続けていくことが、わたしがわたしに正直に生きると言うことだろうと思っている。わたしは、「正直に生きる」を選択して、そこを生きる覚悟をしたことを毎回、「そうだった、そうだった」と思い出しながら、そこを行く。

父親が激怒、激昂すると、身体が縮こまり、自分が殻に閉じこもっていくような感覚になったけれど、今はもう父に激怒されるようなこともない。
安全になったのだから、わたしは縮こまったり、殻に閉じこもったりしなくて良くなったのだ。それに、父があんなにも知ったかぶり(父は80歳をとうに超えたが、今でも知ったかぶりである)は、父の自衛だったのだろうと理解している。知らなくてわからないことの多い、弱い自分を晒しては生きていけなかったのだと思う。だからって激怒される謂れはないけど。

しかし、思い返してみれば、わたしの父は、自分が激怒して怒号をあげることを、「俺は気が短いんだ」と言って、まったく変えようとしなかった。連れ立って出かけるような友達もいなかったし、怒鳴り散らすせいで、家族の中でも腫れ物のように扱われたりしていたけど、「俺はこれでいいんだ」といつも言っていた。ひとりぼっちになっちゃうよ、と思って、お父さんはかわいそうと思っていたことを思い出す。
そうだ、かわいそうだと思って、それでかわいそうにならないように一緒にいてあげなくては、と思ったことがあった。けっこう思っていた。
でも、父は一人でいるのが好きで、一人が苦痛ではない人だったんではないか?と思う。一人でずっと何か作ったりする作業に没頭していることも多かった。それに、誰かに褒めてもらおう、褒めてもらいたい、みたいな発想が父にはなかったよなーと今は思う。自分も子どもを褒めたりすることはなかったけど。

そして、老後の今は、ほぼ一人で過ごしている。母親と二人で暮らしてはいるものの、一緒に出かけたりすることはあまりなく、一人でひたすら散歩したり、自転車に乗って30kmのサイクリングをしたりして楽しんでいるそうである。毎晩、好きな映画をみて、好きな本を読んで、ものにほとんど執着はなく、いらなくなったらバンバン捨てる。母とは真逆。

そして、孫からはわりと慕われていて、甥っ子が訪ねて行ったりするし、息子はなぜか「じいじ大好き」と言って好いていて、上手に甘えている。わたしは父に甘えた記憶がないのだが、甘えられるとちゃんと応えていて、へえ!と驚く。ああ言うのをみると、ああこの人も普通の人だなあと思ったりする。父の口癖で「俺は早死にの家系で、すぐ死ぬから、いつ死んでもいいように好きにやるんだ」と言うのがあった。よく妹と二人で、「憎まれっ子世に憚るで、そう言う人ほど長生きするんだよ」と言い合っていたが、ほんとうにそうなった。父は7人兄弟だったが、兄弟で80才を超えたのは彼だけだ。父のもう一つの口癖は「俺は死ぬときは、きれいに死ぬ」と言うのがあったが、こちらは願いが叶うと良いなと思う。なんとなく。

今はまだ、反射的に知ってるふりをしてしまうこともあるのだけど、これも気づいてどんどん手放していこうと思う。
もう、知ってるふりして身を守る必要はなくなったから。


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