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類友の変化ー私が憧れていたステージの人に囲まれる日々。

今の私の交友関係は、今までの私には考えられないステージの人に囲まれています。このステージっていうのは、物質的なものもそうですが、精神的な状態が神のようで、大きな愛で全てを包み込んでいるというもの。

例えば、

・ありのままの自分で進んでいる
・自分に嘘をつくことはしない
・本当の多様性を理解し行動されている

こんなことがさらっとできている方ばかり。いつも「そうだよね、わかるよー。それでいいんだよ。」と励まされています。そこには、いつも邪念がなく、フラットで、温かい言葉があります。

一方で、

側から見ると、「ほんと、友達多いねー。」「交友関係広いねー。」と言われることが多い私。それは、仮面を被った私が作り上げてきた関係。友人と呼べるのかもわからない。単に、私に相談したかった人の集まりなのかもしれない。

本当に心を開いた友人は、数えるしかいない。というか、そんなにいっぱいいらない。だって、たった1人でも私をそっくりそのまま受け入れてくれる人がいれば、心地よく安心した空間がもたらされるから。

私の根底は根暗だし、孤独が好き。みんなとワイワイしていても、ふと孤独な世界に入ろうする自分がいて、そんな素質に共感して一緒にやってくれる、いわばソウルメイトのような人しか友人と呼べない。

そんな数少ない友人達は、何年も会ってなくても話し始めると、昨日まで一緒にいましたっけ?という感覚になり、心地よくてホッとする人。同じ空間にいるのに、全く別のことをやっていてもしっくりくる感覚。実際に会っていなくてもお互いを感じていたり、シンクロ率も高い。心から安心できる存在。

そう、これまでも「類は友を呼ぶ」で、こうした自分と似たような感覚の友人がいなかったわけではない。

しかし、末っ子を産んでから、類友にしか会わないのかと錯覚するような出会いの数々。視点を変えると、他にも出会いはあったけど、その出会いには着目していないとも言える。

それは、自分に必要だと思うことにしかフォーカスしていないということ、すなわち、感覚を重視できている証拠。

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アリストテレスが教えてくれました。

友は第二の自己である。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』

「類は友を呼ぶ」もそうだけど、友人を見て、自分を知る。そこには自分の投影がある。

そう思うと、彼女達に「私自身が私が生きたかったステージへと着実に歩んできている」ということを教えてもらっているのだと受け取れます。

そのように教えてくれていることに感謝ですし、これでよかったんだと安心感や勇気をもらっていることに、心から感謝しています。

日々、「これでよかったのか。もっとこうすればよかったか。」と左脳やエゴが指摘をしてくることに対して流されずに「自分に素直になる」を心がけて、感覚を重視し、心の声に従ってきたこと。

すると、自然に自分が心地よいと感じるものを引き寄せ、そこに身を置いている。

そして、周りから自分の状況を確認させてもらって、自分の進んでいる道は、自分が描いている道であると後押ししてもらっているんだと感じました。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

Mayumi🦩


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