まえがき
小学生のころから外国に憧れていた。
黒柳徹子のザ・ベストテンより。
小林克也のベストヒットU.S.Aの方が輝いて見えた。
ベストテンで捲し立てる黒柳徹子より。
英語を捲し立てる小林克也がまぶしかった。
日本より外国がイケていた。
中学から高校にかけて。
外国のドラマは何でも見た。
ファミリータイズ、フルハウス、
ビバリーヒルズ高校白書、ER。
映画も洋画オンリー。音楽も洋楽。
意味がわからなくたって。
アメリカに生まれていなくったって。
ブルース・スプリングスティーンと一緒に。
『Born in the U.S.A~♫』とシャウトしていたそんな中学生。
いつか自分は日本を出るんだ。と思っていた。
だからと言って、英語を勉強するわけでもなく。
考えることと言えば。
どうやってVISAを取るかということ。
ラーメン屋とかお好み焼き屋を開くか?
でもどうやって…。ウーン。と唸っては。
スクリーン、ロードショー、ミュージックライフ。
といった雑誌をめくり。
外国の香りのする世界にただひたすら酔っていた。
そんなおバカな10代。
そして。20代になると。
カメラマンになるんだー。ウォー。と夢見て。
バイトや派遣で生計を立てつつ、
写真展や現代美術やアンダーグラウンドな映画を
観に行っちゃったりして。
自分は他のフリーターとは違うんだ。と自分に酔った。
重たいカメラを持ち歩き、何も創っていなかったけれど。
(ヘンなものはいっぱい作った)
自分はアーティスト。だとさえ思っていた、
そんなビョーキな20代。
夢といえば、日本を出ること。
しかし。
なにか努力しているかといえば。
なにもしていなかった。
そして。英語も操れることも。
カメラマンも自称の域を出ることはなかった。
2001年3月。27歳。
とりあえずニッポンを出てみた。
ミュンヘンから入り、その後ベルリンに渡った。
ビザや労働許可は切れそうになる度、外人局と自力で交渉し、
会社員でも学生なわけでも誰かの奥さんでもなかったが。
気合いと運で勝ち取った。
そして。
ドイツでフリーターという不思議な生活が始まった。
しかーし。ビザを得たって。
ニッポンでフリーターな人がドイツで何かできるわけではなく。
日本人従業員のいないジャパニーズレストランで。
タイやモンゴルの人達と一緒に働き。
『キツイけど。慣れるからね』と。
訛ったドイツ語で励まされるような日々。
その後は一転。南半球オーストラリア、メルボルンに渡ったたり、
再度ベルリンへ渡ったりしたが(当時かなり頭もイカれていた)。
やはり。行き当たりばったりでは何もできなかった。
もう気が済んだ…。
私は日本に住む。それでいい。
私の4年に渡る長ーい旅が終わった…。
しかーし。それから5年後。
日本で大手メーカーの派遣社員として。
4年ほどヌクヌク生活していると、
リーマンショックが起きた。世界金融危機である。
私も派遣切りになる日がきた。
が。人生とは不思議なもんで。
そこで拾ってくれたのがなんとドイツ北部、
リューベックにある現地企業。
なぜか派遣切りから一転。
ドイツに行くチャンスが巡ってきたのだが…。
人生、ひと冒険が終わった後である。
今更ドイツ…。
私のドイツ語能力は2歳児程度。
一歩外に出れば。
精神年齢30代アウトプット2歳児として生きることになる。
しかし2歳児だって1人で生きないといけない。
ネットやら携帯の契約やら家探しやら。
いろんな事をすべて自分でやらないといけないのだ。
誰かに電話して、ちょっと今からお茶どう?
なーんて今までのような生活もないだろう。
だって、大きい2歳児としゃべっても楽しくないもん。
ウ~。ぜ~ったいその生活キツイ!
でも…。
今回は。外国の企業で会社員として、
中産階級として暮らせるのではないか。
そう。海外でブ、ブルジョア生活~っ!
しかーし。
ドイツの片田舎で30半ばの女1人か…。
なーんか。いーやな予感…。でも~。
ドイツって有休ンヶ月とかあるんでしょー。
サラリーマンは毎日5時で帰れるんでしょー。
外国に住んで外国の企業で外国語だけで働くなら。
絶対、語学力もスーパーアップでしょーがーっ。
すべてちがった。
これはその『すべてがちがった』記録である。
実はこちらで全部読めます↓
https://mayu-mayuge.jimdo.com
マユマユゲ
発酵野菜の作って調子がよくなった!とか、ドイツで鍛える生活で笑い転げたとか、、なんか役に立った場合、受け付けてます笑。