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偽りの善を担いで今日も生きている。

自分で言うのはあれだが、大人になってから子供の時よりもいいことをすることが増えたと思う。
これは行動することが増えたからというのもあるが、マイナスなことをすることが減ったからプラスマイナスを相対的に見ていいことが増えているだけの可能性もある。
勉強も運動もヘボクソな自分に親から唯一「お前は優しいな。」と褒められる。
でも親が言うんだから間違いないだろう。自分は優しい。

…なんて思っていたが、よく考えてみた。
自分は優しいんじゃなくて、断る勇気がないだけの雑魚メンタルなのではないのだろうか。

例えばその場で行われた問題を放置したり、相手からして良くない行いをしてしまった場合に将来もしかしたら、その対象から逆恨みされるかもしれないということを大げさに考えてしまうことがある。
その将来っていうのはいつになるか分からない。

明日突然その友人が「アイツ付き合い悪くね?」とか思ってスパッと縁を切る可能性もあれば、「なーんか嫌いかも」で卒アルの写真をネットの海へ放り投げられる可能性もあるわけで。
それの恐怖が心の奥底に隠れているからそれを避けるために行動することが増えた。

だから自分のしている優しさっていうのは、誰かのためにやっている良いことなのではなくて自分を守るためのエゴでしている善なのである。
すなわち偽善。偽りの善なのである。

でもそんな偽りの善でもやっていないと、本当に人として終わってしまうと思ってるからやっている。
自分のために人に優しくするし、自分のためにLINEは早く返す。
自分のためにカラオケで一番最初にある譲り合いも素直に受け取るし、自分のためにごはんの時に一人2300円の割り勘でも2000円でいいよって言う。

それは友人のためではない、自分がそれでスッキリするからなのである。
もちろん逆にしっかり割り勘しようってなったらその意見は受け取るし、いちいち「ありがとう」とか「ごめん」とか言うなって言われたら控えるようにする。

自分の善っていうのはあくまでさっきも言った通り偽善なので、自分のメンタルのためにやっているのである。
よい行いをしても偽善だと思われてしまうことがおおい。
でも自分は偽善も一つの正義なのではないかと思っている。

己の中のモヤモヤを残さないためにやる善。
別にその善が帰ってこなくてもいい。そもそも人に優しくしたらそのうち帰ってくるなんて言うのは幻想だ。
その優しさに漬け込んでくるクソ野郎もいるし、カモにして変な勧誘とかしてくる奴とかもいる。

だから人に行う善っていうのは偽善くらいがちょうどいいのかもしれない。
帰ってきたらラッキーだし、帰ってこなくても自分のためだと割り切れる。

自我をもって人に優しくするようにして多少心が楽になっている。
そんな偽善者わたしのお話でした。


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【偽名】佐久間 ユマ
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