【自己肯定ってこれで良いんじゃないかな】

自己肯定感低いなと思っている人に読んでもらいたいな。
 
自分らしく生きようとすると、世の中の「望ましい」の感覚の刷り込みの強さをものすごい実感するんですよね。
 

「望ましい」の基準からはみ出る自分って認めて良いか戸惑ったりしませんかね?
 
 
例えば、母との喧嘩が嫌すぎて自分の感情をしまい込んだ私ですが、自分を犠牲にすることでその場をおさめようとしたところがいかにも自分らしいなと感じてるんですね。
 
 
自分を犠牲にするのはいけないとよく言われるけど、その癖って本当に治らないですね…
家族にも恋人にも割と尽くしてしまうのですが、体がそう動くので、やめられないのです。
 

そして、自己犠牲以外に、自己肯定感の低さもネガティブ思考も、自信のなさもです。
 
 
あー心の業界でダメだと言われているもの、けっこう持ってる(笑)
私って全然世の中で望ましくない。。😅
 
 
でも、パラドックスだけど、望ましくなくても全部理由がちゃんとあるので、そのままで良いことにしたら自己肯定できたことになっちゃうんですよね。
 
 
それぞれについて私の中でどう結論つけているのか書いてみますね。
 
 
◯自己肯定感の低さ
自分のことはそれなりに好きだけど、良いとは思ってない。もっと良い人はたくさんいます。自分が最高なんてプレッシャーがかかること思いたくもない(笑)
私の自己肯定感の低さはプレッシャーに疲れないためだったりする。

◯自己犠牲的
視界が広くて場が割と見えてしまうほう。
自分の心地よさより、みんなとの心地よさを大切にしたくて見えている者としてみんなの空気を優先していると、自分が最後になるのは当然。
見えているとやりがちな「我先に!」っていうのは、戦略的に以外では使わないことにしてる。
 
◯自信がない
良く思ってもいない自分に自信なんて持ったら終わりだよ、って思ってるから自信を持たないことにしてる。一生このままいくんじゃないかな。
 
◯ネガティブ
ネガティブが先に見えてしまう自分に劣等感持っていたけど、脳の作りだから仕方ない。でも、ポジティブしか見えないお花畑みたいな人より深みがあって落ち着いていて、嫌いじゃない。悪くはないんじゃないかな。
 
 

世の中的な望ましいの基準に当てはまらないことを気に病んだり、どうにかしようとしないことが自己肯定感高い状態なんですよね。
 
 
数学の世界だと、定数と変数がありますね?
変数は自由だけど定数って変えられないんです。
個性を肯定しないのは、この定数を変えようと躍起になることと一緒なんですよね。
 
 
この話、誰かのyoutubeからのパクリですが分かりやすくて気に入りました😊
 
 
認めたくないとか、認めて良いのか戸惑うような個性について、どうしてそうなるの?って、自分に聞いてあげて、その理屈を誰かが語っている理屈より優先してあげるのが自己肯定なんですよね。
 

少しでも参考になった!面白かった!という方、スキ!で応援してくださると嬉しいです💖

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?