アヴリル・ラヴィーンとk-popとラグジュアリービジネス

久しぶりにアヴリル・ラヴィーンの音楽が聴きたくなった。
CDの歌詞カードが擦り切れるほど歌ったなあ(ノスタルジー)。牧歌的というか田舎っぽくて良い。平和な時代だったんだなー。20年も前の曲を今でも思い出すし、一生懸命覚えていた頃の自分も蘇る。

今はk-popをはじめ、韓国由来のトレンドはスピードが早い。最近はラグジュアリー業界がその勢いとPR効果に便乗してビジネスを加速している。(業界が欲しい若い世代からお金を引っ張るには、韓国人気にあやかるのはうってつけ)

いつからかアヴリル・ラヴィーン的なジーンズにネルシャツではダメになった。アメリカで言うと、キム・カーダシアンをはじめとするサイボーグ的存在が持て囃されるようになる。同じような経験を代弁した歌詞に共感する時代は終わり、スマホのセルフィーに酔い、美容整形でつくりあげる「美」を「個性」とする時代となった。

この現象はk-popも然り。年代で流行りの顔が違いすぎる。とにかく顔がみな同じ、スタイルが良すぎな、アジア的サイボーグがあたかも正と見なされる。あくまでも「自然」な努力で成し得た、奇跡的な存在という路線は100人いたら2~3人しかいないだろう。他の97-98人は人工的な施しを得て、「自然」を手に入れている。

k-popとキム・カーダシアンはラグジュアリー業界に愛されている。それは経済的価値を生むからであるだろうけれど、人工的努力で成し得た「人気」と「影響力」にあやかろうとするブランドの戦略は本当に「ラグジュアリー」的なのだろうか?ここに物凄く、ラグジュアリーブランドとしての矜持がないと感じる。

どの業界、どの規模であっても「安定」はなく、ビジネスは常にボラリティが高い。しかしラグジュアリービジネスは薄利多売ではないし、歴史的背景からの信頼を価格に乗せているのではなかったのだろうか?

いつからか時代のスピード、変化とともに、物事においての見方は一様に変化した。CDについている薄っぺらい歌詞カードを見ながら、CDを巻き戻すことなんて一生しないだろう。それでも思い出としてノスタルジーを感じるとき、儚い気持ちになるのも悪くないなと思った。

これからAI、ロボットなどの人工的な世の中になっていくだろう。それは進化でもあるが退化でもあるように感じる。ラグジュアリーブランドが追う、最先端な「人工的な美」の先には何があるのだろうか。もし、その路線で失敗したら頭のいいブランドはコロっと「伝統と歴史」に回顧するのだろう。

結局は時代に合わせて振り切れる武器を持っていると強いということかー。人間も同じ。武器を増やそう。


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