名古屋の名物!台湾カラアゲのルーツに迫る
お揃いの白いスニーカーを履いたカップルとアンティークの着物を纏った女性がすれ違う。味噌カツ、ケバブに線香の香りが交じり合い、日本語以外の言葉も聞こえてくる。
ここは約300の店が集まる、名古屋で一番活気のある商店街「大須」だ。食べ歩きが盛んなこの街で、鮮やかなオレンジ色の看板を掲げた店の前に人だかりができている。
「李さんの台湾名物屋台」だ。湯気の昇る大粒の「台湾カラアゲ」にかぶりつく男性は、この店の常連客という。「カラアゲの店は大須にたくさんあるけど、ここは独特のスパイスがだんだんクセになるんだ」と教えてくれた。
お客さんから撮影を求められ、にっこりピースで応じている男性の姿が目に入る。店の経営者、台湾出身の李承芳(リショウホウ)さんだ。
李さんは日本に台湾カラアゲを初めて紹介した人物である。台湾カラアゲは何種類もの香辛料を鶏肉にまぶして揚げるのが特徴だ。「うちは全部で10種類くらいの香辛料を使っているけど、何が入っているかは企業秘密だからね」と李さん。熱々のカラアゲをほおばると八角などのエスニックな香りが鼻に抜ける。
台湾メディアも日本初の台湾カラアゲ店を取り上げるために取材に訪れたほど注目されているという。
「李さんの台湾名物屋台」は大須に3店舗、そのほか愛知県内に2店舗、さらには東京、大阪、富山にも1店舗ずつ支店を構えている。なぜ日本で台湾カラアゲ屋台を始め、日本各地に広めるまでになったのか。
カラアゲ店主の前職は、連ドラ主演男優!
もともと、李さんは台湾の芸能人だった。23歳の時に「浴火鳳凰」というゴールデンタイムのドラマの主役を演じてブレイクした。
その後もタレント活動を続けるが、台湾の芸能界に氷河期が訪れる。1990年代に「東京ラブストーリー」など日本のトレンディドラマが放送されるようになり、高い視聴率を取った。
また、安室奈美恵など日本の芸能人がフィーバーし台湾でもテレビ画面を賑わせた。結果として、台湾の芸能人の仕事を減らすことになってしまった。李さんもあおりを受けた一人だ。
これからは日本ブームの時代だ!
1999年の秋、李さんは留学を決意して日本へやって来た。35歳の時だった。日本文化を学び、日本を紹介する番組を台湾で作ったらヒット間違いないだろう。そう考えたのである。
留学先には名古屋を選んだ。名古屋に住む台湾人の友人から「住みやすい街だよ」と勧められたからだ。日本語学校に通って必死で言葉を勉強した。1年間の滞在予定だったが、もう少し日本に残ることにした。
子どもの頃に家族が営む食堂を手伝った経験や、料理が好きだったこともあり、調理師専門学校へ入学する。ここで知り合った友人との出会いが李さんの人生においての転換期となったのだ。
ノリと勢いで屋台をオープン
専門学校生としての生活にも慣れてきたある日、クラスメイトから「李さんの料理はおいしいから、一緒にお店やろうよ」と話を持ちかけられた。
「絶対に、ウソだと思った。冗談半分で大須に物件を見に行ったら、一発で候補地
が見つかっちゃったんだよ」トントン拍子に話が進み、2001年、大須に2坪の敷地で『李さんの台湾名物屋台』1号店がオープンした。
「そこからが苦労の始まりだった……」と李さんは語った。
名古屋の冬はつめたい
開店当初は誰にも見向きもされなかった。
「今でも覚えている、初日の売り上げは1350円だった。さみしかったなぁ。台湾カラアゲなんて、見たことも聞いたこともなかったと思うし、タピオカドリンクも馴染みがなかった。しかも売っているのは日本語をあまり話せないガイジン。そりゃあ近寄りがたいよね」
李さんは台湾カラアゲの美味しさを伝えるためにお客さんに積極的にアピールを始めた。
「おいしいカラアゲいかがですか?」
揚げたてのカラアゲをカットして店の前を通る人に試食を勧めた。しかし、誰も目を合わそうとせず足早に通り過ぎた。店をオープンしたタイミングは冬である。木枯らしと人の冷たさが心身に沁みた。
「商店街の人にとってもよそ者でガイジン。すごく冷ややかな目で見られていた。日本人は、なんでこんなに冷たいんだろう。そう思った」
それでも、李さんはあきらめなかった。
「失う物は何も無かったからね、怖くなかったよ」
店の前を通る人に、「おはよう・こんにちは・こんばんは」の挨拶を欠かさず行った。数か月経つと、顔なじみになった人が試食に手を伸ばすようになったのだ。1口食べて気に入ったお客さんがカラアゲを買うようになり、そこから売り上げも徐々に伸びてきた。
感動と恐怖の行列
台湾カラアゲの評判が広まり始めたころ、名古屋のグルメ情報番組「PS」で店が紹介された。当時の番組ディレクターは「口コミで話を聞いていたので気になって番組で取り上げた」と言う。その週末、李さんは日本のテレビの力に驚愕した。
「開店準備のために店に行くと、店のまわりに人が溢れていた。100人以上はいたと思う。何か事件でもあったのかと尋ねると、『店のオープンを待っているんです』という答えが返ってきたんだ。その瞬間、感動と同時に恐怖にも包まれたよ。」
中には6時間以上並んでいる人もいた。これだけの人が自分のカラアゲを待っていてくれたことが嬉しかったが、困ったことにそれだけの人数を賄える材料を用意していない。
それに自分一人でお客さんをさばけるのだろうかと不安でたまらなかった。カラアゲは途中で品切れとなってしまったが、お客さんの忍耐強さと優しさに助けられた。全く文句を言わず礼儀正しい人たちばかりだったという。
「大丈夫。また明日来るから」と言って本当に次の日に来る人もいたそうだ。
仲間の裏切り
テレビで紹介されて以来、お客さんは順調に増えアルバイトを雇うまでになった。ところが、その頃事件が起きた。李さんが台湾に7か月間の一時帰国をしていた時のことだった。
信頼して留守を預けていた台湾人スタッフに店を乗っ取られてしまったのだ。「李さんの台湾名物屋台」の看板はそのままに、店の名義が台湾人スタッフに変わっていたという。カラアゲの味も李さんが提供していたものと全く同じだった。
「全て自分の管理が甘かったせいだ」悔しくて、もう一度やり直したいとの想いで店舗を探し回り、3か月後に再び大須で店を立ち上げた。
なんと、大須には元祖とニセモノの「李さんの台湾名物屋台」が混在することになったのである。ニセモノの店は李さんの店に何かと言いがかりをつけ、たびたび営業妨害をしたが、長くは続かず数年で潰れた。李さんが台湾から仕入れていた材料を調達できなかったため途中からカラアゲの味が変わり、お客が離れていったのだ。
名古屋にカラアゲブーム到来
常連さんを全てニセモノの店に持っていかれてしまっていたので、李さんはゼロからの再スタートであった。「おいしいカラアゲいかがですか?」再び地道に宣伝活動を続け、3年程かけて経営を軌道に乗せた。商店街の人たちからは「こんなに繁盛しているなら、もう1件店を出したらどうか」と何度も言われるまでになった。
「売上が半減すると思って、2号店を出すつもりはなかった。でもね、半年くらい言われ続けると気持ちが動いたよ。商店街をリサーチすると2号店を出してもうまくいっている店もあったから、やってみるかという気持ちになったんだ」
2号店がオープンした頃、大須にカラアゲブームがやってきた。
大須はカラアゲの激戦区となり、最盛期には約100軒ある飲食店のうち、カラアゲ店が20店舗以上を占めた。李さんのお店が人気となった秘訣は他にはない特徴があったからである。
カラアゲ容器は紙コップではなく「こっちの方が美味しそうに見えるでしょ」とプラスチックの透明カップを使っている。さらに、当時はカラアゲもタピオカドリンクもそれぞれ専門店しかなかったが、李さんは両方提供していた。
他の店も李さんの店に倣い、同じスタイルをとった。休日になると商店街はどこを見渡してもカラアゲのカップとタピオカドリンクを持って歩く人がいた。
今では一時のブームは落ち着き、カラアゲ店の数も9店舗となった。その中で行列が一番長いのは、やっぱり李さんのお店である。
「よそ者」から「仲間」へ
李さんが店を立ち上げた時の印象を、大須の変遷を35年以上見守ってきた「お茶の嘉木園」3代目店主後藤康文さんに伺ってみた。
最初の印象は「訳のわからん、得体のしれない奴がカラアゲを売っとるな」というものであった。「ずっと商店街に住んどる僕らにとっては、彼はよそ者だからね。とりあえず、どんな奴なのか様子をみようと思ったのです」
李さんが商店街に馴染んでいくきっかけになったのは、街のお祭りを手伝ったこと。李さんは商店街に溶け込むため手さぐりで努力していた。
李さんを知る人は当時をこう語る。「大きな声を出してビールの売り子をやったり、差し入れを持ってきてくれたりと一生懸命手伝ってくれましたよ。3年も経つと、頑張りが認められ商店街のハッピを渡されて感激していました」
商店街の人たちは、李さんが外国人だから遠巻きに見ていた訳ではなかった。後藤さんも同じだ。
「最初に李さんの様子をうかがっていたのは、台湾人だからではない。日本人でも誰でも同じ対応をとっている。新しく店を始める若い人が商店街のルールを知らずにトラブルになる場合もあるから、まずは出方をみているんです」
李さんは次第に日本人の立場になってものごとを考えることができるようになった。
「店を始めたときは日本人の気持ちが分からなかったから、自分のやり方で通そうとして苦労しました。それから挨拶を毎日したり商店街の行事にも協力して、3年くらいかかって商店街の方から挨拶してもらえるようになったんだ。
今では大須といえば『李さん』と言ってもらえるまでになった。テレビ局の取材が大須に来ると、商店街の人がとりあえず『李さんの台湾名物屋台』を紹介してくれるんだ」
李さんは顔をほころばせながら話してくれた。
来日前は日本のことなんて嫌いだった
今ではすっかり日本になじんでいる李さんだが来日前は日本に対して良い感情を持っていなかった。
「忍者なんかの日本文化は好きだったけど、教育の影響で日本という国は好きじゃなかった」
親日の国というイメージの台湾だが、世代によって感情は異なる。
日本が台湾を統治していた時代を経験した80歳以上の世代は親日派が主である。40代~70代になると戦後に中国大陸からやって来た国民党の政権下で「脱日本・中国化」の教育を受けたため、今も反日感情を持つ人がいる。10代~30代はポップカルチャーに詳しい「日本好き」が増えている。
しかし、李さんは「日本に来て印象がガラっと変わった。一番驚いたことは、困っている人をほっとかないことです」と言う。
来日した翌日、日本語学校へ向かう途中で道に迷ってしまった。オロオロしていると、「おにいちゃん、どうしたの?」と母親くらいの年齢の女性が声をかけてくれたのだ。身振り手振りで、一生懸命に日本語学校へ行きたいことを伝えると、女性は学校まで李さんを案内してくれたのであった。
「日本について教えられたことは何が正しくて何が間違っているのか、自分の目で確かめたいと思うようになったんだ。そして日本を知っていくうちに台湾で受けた教育はおかしいと気がつきました」
僕は”日本人”になることにした
李さんは日本が居心地良く感じるようになり、台湾に戻らずそのまま滞在を続けた。そして永住を決意し2012年に日本国籍を取得した。
「日本に骨を埋めようと決心したから『日本人』になることに抵抗は全くなかった。商売をやっている責任もあるしね。『李さんは稼いだお金を全部台湾に持って行った』と言われるのが嫌なんだ。日本できちんと税金を払いたい。微力だけど経済にも貢献したいからね」
李さんの夢は、日本全国に「李さんの台湾名物屋台」をつくることだ。
「47都道府県を全部制覇したい、私の一生を懸けた願いです。カラアゲには日本で経験した嬉しいこと、辛いことが全部詰まった僕の魂だからずっと世界に残ってほしい。僕の人生、それしかないからね」
台湾で日本文化を紹介するつもりで来日した李さん。今では日本中に台湾の食文化を伝えようとしている。日本に台湾カラアゲを広めた男は、今日も街のどこかで、人々の胃袋をわしづかみにしている。