
もしかしたら、毎日きちんと睡眠が取れていたらそもそも瞑想は必要はいんじゃないか
っと思ったのは、2024年6月(1年間アウトプットをほぼ止めていろんなスピリチュアルリーダー?に会いにいっていたものですから過去の気づきなど)
これは体感で感じたのですが、最近学んだのはドーパミンのこと。
わたしが以前作ったANANDAHメソッドという瞑想方法。
特に今は推してはいないんですが、簡単にいうと、まずは自分を整えるために瞑想をし、自分軸とつながることができたら望みをヴィジョン化するために瞑想をするというもの。
最近流行りのタフティ然りですが(タフティ自体かなり昔に書かれたもののようなので、日本語訳されて流れ着いてみんなが読み出したのが最近ではあるものの、実は様々なものが時差だったりしますよね)この瞑想的な俯瞰はとても大切であるということです。
なので、こういったものに新しい、古いはそれほどなくって、つまりこの宇宙の!地球上の仕組みは大して変わっていないということ!
変わったとすれば、表現方法や環境、文化、そういったものの変化でしょうか?
例えば、インドの古典ヨガは紀元前6世紀頃からなり、これを今のなど習慣にはならず叡智として学んでいますし(義務教育で習っていないですし)また、これを元に仏教が、特に真言宗は同じ教本がベースになっていたりしますね。そもそもヨガは口頭伝承、そして仏教は自由にアレンジして教えていいということになっていますから、様々な解釈でわかりやすいように伝わってきたわけです。きっとこれと同じ!
もとい!何が言いたかったかというと、皆さんお気づきの通り、瞑想が精神を落ち着かせるだけでなく、願望実現や引き寄せにも有効だということがなんとなくわかっているとは思うのですが、改めて!
つまり、サクッといっちゃうと、脳疲労のせいで瞑想しなきゃいけないのでは?と今言語化すると思うわけです。
(だいたいタイトルだけ降りてきて放置していたものですから)
肉体及び脳疲労(これは結局両方とも脳疲労ではあるのですが)が起きていると、ポジティブな未来が描けないという現象が起こります。つまり、望む未来がわからない、ということです。
これは、記憶力の低下、物忘れ、睡眠の質の低下、などの症状も併発します。
この疲労を取り除くためには、もちろん休むことが必要です。つまり睡眠です。
さっきから書いていることがぐるぐるしていますが、つまりこの状態ですでにループしているわけです。
どこかにも以前書いたか、言ったかと思うのですが、視覚情報というのは感覚情報のほぼ8割を占めています。つまり、目を開けているだけで、どんどん情報が入ってきます。だから、ちょっとでもいいので目を瞑って瞑想をしましょうとお伝えしてきたわけですが、
休みの日に疲れた→ずっとスマホをいじっている。特にショート動画など短時間で目まぐるしく変化するものの情報量は多い→情報方で脳疲労を起こす→脳がオーバーヒート→睡眠の質の低下。また、ドーパミンヒットなどが頻繁に起き、過剰に分泌されることで依存傾向に落ちいいってしまうことがある
ということで現代人の生活習慣ではこういった罠に陥りやすい環境にあるわけです。
なので、ここで、また世を捨て修験者にならなきゃいけないのか!って感じですよね?
いや、しっかり意図して習慣化すればいいだけです。
で、ここで願望実現の話とかに移っていきそうになっちゃいますが、睡眠の話。なので、この脳疲労がいつもない快適な状態にしていけば、直感力にも優れ、タフティでいうところの意識の中心と三つ編みもビンビンにさえ、いつでも的確な行動を取り続けることができるのではないか?というお話です。
つまり、エイブラハムやバシャールがぼーっとしろ(そんなこと言ってない?)というのも、待てばいいというのも、余分なことしてないで体力温存しときなさいよ。脳を休めなさいと言っているのではないか?というわけですね。ちなみに運命の神様?は前髪しかないと言いますが、やっぱり、ジャンプ系格闘漫画の修行フェーズのようにですね。仙人みたいな人とか、剣の達人とかのところに修行に行くと感覚を研ぎ澄まして(剣だろうが、なんだろうが一緒なんです。気を操りますよね?)ちょっとした揺らぎを感じ取りますよね。そういうことです。それが来たときに感じ取って掴めばいい(あ、前髪をです)そのためには、霞を食べる(消化も体力使いますからね)冗談です。余分なことはしない。最低限のものだけやって、あとは待っていればいいということなんですね。
だから、食べたくないものを食べない(精神も身体も欲していないもの)とか、時間を潰すためにその場しのぎの快楽を得ようとしないということですね。(食欲しかり、性欲しかり、知識欲しかり←やりがち。睡眠欲に関しては現代人はちゃんとした質の睡眠が取れていないので、寝れるだけ寝てください)
とはいうものの、地球に遊びにきているわけですから、ちょっとくらいの無駄はしてもいい。だけど、どこからが必要で、どこからがちょっとしたおいただったのかは自分で把握しておかないと、どんどん他人軸の罠にハマっていってしまう(振り出しに戻りましたね)ということなんです。
(こうやって、人間というのは全てが関わり合っているから面白いのですが)つまりこの過剰な部分が、アパリグラハ(不貪)であり、この自分の加減を知っているということがサントーシャ(知足)だったりということなんです。
次の話になっちゃいそうなので、今回はこれくらいで。
話したいことは山ほどある
だけど、まとめるのは難しい。
まゆでした。