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(4)人を傷つける人がいちばん傷ついている


ある日、おばあちゃんが真夜中に、私とお母さんと母の彼氏が住んでいる家を見張っていた時のこと。夜中の2時とか3時とかにお母さんが彼氏と帰ってきたので、おばあちゃんが「あんた茉優はどうしたの」って聞いたらお母さんは「家の中にいる」と答えた。

おばあちゃんが「茉優が起きたらどうするの」と聞くとお母さんは「起きないもん」って答え、それにおばあちゃんがブチ切れて「あんたは母親失格です!茉優はうちが預かります」となり、それからわたしはおばあちゃんちで育てられるようになった。そうしてわたしは保育園から高校までおばあちゃんちから通っていた。

この時おばあちゃんは「2度と茉優に寂しい思いはさせない」って強く決意して茉優を引き取ってくれたのだと後から聞いた。その決意の通りにおばあちゃんはわたしに、いっぱい愛情をくれた。


▷生前おばあちゃんがそのことについて書いた日記。
わたしが15歳の頃おばあちゃんと夜まで、お母さんのこと、生い立ちのことなどを会話をしたことがあった、そのときのメモを去年見つけた。

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わたしのおばあちゃんは
2020年の9月にガンで亡くなってしまったのだけど、この紙を見つけた時、涙が止まらなかった。

『まゆは波瀾万丈の状況の中まゆなりにいろんな苦労をしたんだなと、とてもかわいそうに思った』

『まゆは小さいながらに孤独だったんだなと思った。』

『トラウマにならないこと願う。愛情いっぱいあげなきゃな。まゆ幸せになるんだよ』

その言葉を見るたびに、いまでも涙が出てくる。

ありがとう、おばあちゃん。まゆは幸せになるよ。



非行の気持ちがわかるからこそ


あの時、おばあちゃんがわたしを引き取ってくれてなかったら、非行少女になっていた自信がある。心を閉ざし、言葉も話さないまま、生きながらにして死んでいるような、すべてがどうでもよくなるような。自分を傷つけても誰かを傷つけても、もうすでにこころが麻痺しているような。そんな法を犯す少年少女の気持ちが、わたしはすごくよくわかる。

だからわたしは、学校の先生を目指すのをやめた後は法務教官になろうと思った。少年院にいる子供たちの生活の指導をする職業のことだ。しかし法務教官の目的は「日本社会に適合させること」と知り、辞めた。

私はこんなに自殺者のいる日本に適合すること自体が頭おかしいと思っているからだ。彼らの心の傷や、感情に寄り添い併走ができたり、サポートができたらいいなとは思ったが、いまの日本社会に適合させることは私がやりたいことではなかった。

でも今となってはその「適合」という言葉も、自分のカタチを変えて社会に適合するという意味ではなく、自分の大事にしたいものは大事にしたまま、自分の傷や感情や癖との付き合い方を学び、そんな自分のまんまで、社会の中で他者とどう関わり、関係性を築いていくのかを考え、その術を身につけていくような、そんな意味の「適合」に今は感じている。言葉にネガティブなイメージを勝手に持っていたのはわたしの方だった。


わたしは思う。人を傷つけるひとが、いちばん傷ついている。どこにも加害者はおらず、加害者に見えるみながこの社会の被害者なのだと
凶悪な殺人を犯す人間の心には、もう取り返しのつかないほどの傷と悲しみと絶望が溢れている。救われずに、寄り添われずに、麻痺し、知らず知らずに抑圧し続けた感情はいつかどこかで必ず爆発する。そんな悲しい連鎖がこの世界には広がっている。

だからこそ、小さい頃から人が学ぶべきことは、感情の扱い方、人のこころの構造、自分という人間との付き合い方だと、わたしは思う。

人が怒る時というのは、どういう悲しみが根っこにあるときなのか、人間にはどんな感情がありその感情にはどんなニーズがあるのか、人が誰かを傷つけている時というのは、その人の心がどんな状態にあるときなのか、自分に処理しきれない感情が溢れた時に、どう扱えばいいのか、それを知り、学ぶことで、他者への理解も進むし自分を愛することも学べる。そしてそれは一生もんになる。

結局、自分からは
死ぬまで逃れられないわけで。

他者というのは、
いろんな感情をプレゼントしてくれる。
その感情は100%自分を知るためにある。
自分を愛するためにある。

そんな感情を
どこまで見つめ
どこまで受容できて
どこまで愛せるか

もうただ、それでしかないのだ。

わたしの夢のひとつに、
子どもたちにとっての「感情の先生」というものがある。

ひとが子どものときから、
感情というものが、何を教えてくれてるのか、感情の扱い方、感情を通した自分の愛し方を知れたなら、どれだけ世界はやさしくなるだろうか、と思っている。

わたしを傷つけたあのひとも
友達をいじめているあのひとも
「ああ、なにか心に満たされていないものがあるんだなあ」
「ああ、あの人は大切にしたい何かが大切にされなかった悲しみから怒っているんだなあ」と、見れるようになったなら、人が人を指差すことが減るようにわたしは感じている。

強く苦しい感情に支配されてもう全てを投げ出したくなったときに、「ああ、自分にはこんな大事な願いがあってそれが叶ってないことが悲しいんだなあ」って自分に対して、なぐさめと愛のまなざしを向けることができたなら、感情が溢れる度に自分を好きになれる。


感情は、ひとを、自分を、愛するためにある。
感情は、ひとを、自分を、癒すためにある。

感情を知るということは
自分を知るということ
他者を知るということ
人間を知るということ

知ることで持てる慈悲の心がある。

わたしはそれを伝えてゆけたらいいなあ。

とってもよろこびます♡