(3)わたしにとっての「言葉」
私は小さい頃、言葉を話さない子どもだったのだとおばあちゃんからよく聞いていた。
保育園に入ってすぐの頃、保育園の先生たちや家族・親戚たちがわたしを見て、「この子は言葉を知らずに生まれてきたんじゃないか」って話してたんだよ、とおばあちゃんが教えてくれた。
わたしは、言葉がうまくない人、言葉にきつさがある人、言葉で人を刺してしまう人、言葉で人を殴ってしまう人というのは、それだけ大きなこころの傷が、胸にある、ということだと思う。
受け取られなかった経験、うまく伝わらずにもどかしい思いをした経験、自分の大切な思いを捉え違えられた経験、悲しみと諦めが積み重なり、歪みが生まれ、言葉の棘というものが生まれているように感じる。
私は今でも言葉は上手ではないと思う。特に自分の一番大事な“心の柔らかい”部分を言葉にすることが苦手。怖い。すごく勇気がいる。
言おう、言おうと思っても、言葉がのどを超えられない。実際に言葉にして直接伝えるよりも、文字で文章で伝える方がハードルが低い。
どうでもいい想いは別に分かられなくてもいい。
どうでもいい想いは別に受け取られなくてもいい。
ただどうしようもなく大切な思いほど
自分にとって、真実に近い想いほど、
自分にとって、真実に近い言葉ほど、
そのすぐそばには、傷があり、恐れがあるのだ。
だから言葉にするのに勇気がいるし、
理解されなかったり、受け取られなかった時の悲しみは大きい。
イルカなどの動物は音で全部伝えることができる。1つの鳴き声でいくつもの感情を伝えることができる。「分かっているよ」「そうだよね」「大好きだよ」「応援しているよ」「大丈夫」のように伝えたい全てを1つの泣き声で伝えることができる。
動物なども言葉は交わさないけどノンバーバルコミュニケーションをしている。そんな動物たちは本当にうらやましいなと、小さな頃から思っていた。
人間も、言葉さえなければ、もっと真ん中に在るままに、愛を交わせると思っていた。
言葉さえなければ、愛されていることを愛されているままに感じれて、愛しているままに愛を伝えられる、と。
言葉があるから、愛されているかどうかを言葉に求めたり、言葉に頼ったり、言葉のせいでミスコミュニケーションが生じてすれ違い喧嘩したり戦争したりするのだと、「言葉なんて嫌いだ、言葉なんてなければいいのに」と、ずっとそう思って生きてきた。
だからわたしは動物のことが小さいときから大好きでもあり、うらやましくもあった。小学生の頃のわたしの将来の夢は獣医だった。
わたしが動物といるときだけは、言葉から解放されて、ただこころの真ん中に在るままに、触れ合えて、愛し合えている感覚があった。それが幸せだった。たぶん小さい頃のわたしは、人間に対してよりも言葉のいらない動物に対しての方が、心を開いていたのだと思う。
言葉にされていることしか『ある』と思われず、言葉にできなければ『ない』とされる。
それがずっと嫌だったけれど、それは裏を返せば、わたしが、わたしの真実を言葉にすることを諦めていたということ。
今は、怖いし難しいし勇気もいるし、投げ出したくなってしまうけれど、わたしはわたしの真実を投げ出したくはない、と思えている。
なぜそう思えるようになったかというと、真実を言葉にできる喜びを、僅かながらに知ることができたからだ。不器用なわたしが、パートナーシップを機に、少しずつ、少しずつ、怖いながらにも、真実を言葉にできるようになってきた。
初めて自分の真実の部分、やわらかい部分を言葉にできた時の感覚を、わたしは今でもはっきりと覚えている。
「わぁ、心のこの領域って、言語化できるんだ...他者という人間に伝えることができるんだ」と感動した。
そして、それが表現できて相手に受け取られるということは、この上ない喜びなのだと知った。
今世人間である以上、わたしの「真実」とわたしの「言葉」が限りなく近いものでありたいなと、思いながらいま生きている。傷つく覚悟を持ってしか、愛することはできないのだ。
とってもよろこびます♡