東北三詩人試論
0.
宮沢賢治、高村光太郎、石川啄木の三文士を東北三詩人と呼ぶことにする。三人ともに東北に縁があるからだ。以下はこれら三詩人の詩歌作品に対する断片的試論だ。矛盾もあろう、曖昧さもあろう、飛躍もあろう、行きつ戻りつもあろうが、それらをスパイスとして楽しんでいただければ幸いだ。
1.ヴ・ナロード
広義では、賢治も光太郎も啄木もヴ・ナロードの徒だった。狭義では、ヴ・ナロードとは、19世紀後半のロシアの学生たちが農民の中に入りこんで社会主義の宣伝をしようとする際のスローガンであり、「人民の中へ」という意味だ。社会主義者でもあった啄木はこの言葉をその詩の中で使っている。以下の詩中の ’V。 NAROD!' がそうだ。
2.
改めて問う。ヴ・ナロードとは何か。社会主義色を剥ぎ取り、より高い見地からすれば、それは知恵を持てる者が持たざる者どもの中に入りこんで、その心に寄り添い、その生活を改善し、心身ともにその幸福を得る一助となることを言う。史上、ヴ・ナロードの主体は何がしかの知識を有する理想主義的先駆者であり、客体は無知蒙昧なる民衆だった。極論となるが、他に史上の例を求めれば、それは釈尊が梵天に説得され涅槃入りを諦めて民衆相手に説法を始めることであり、ニーチェのツァラトゥストラが山を降りることであり、ディドロやヴォルテールの啓蒙ともなる。ヴ・ナロードの本質からすれば、そこには様々な姿があり、19世紀末のロシアで叫ばれたヴ・ナロードは、その政治化した一例に過ぎない。
3.
我らが三詩人はどうだろうか。社会主義者たる啄木はそれを為さんとして為し得なかった。賢治は大乗の徒であり、日常が既にヴ・ナロードであり、敢えてそう宣言する必要もなかった。光太郎は上座部的精神の持ち主であり、芸術を解しない群衆への嫌悪が濃厚にあったので、ヴ・ナロードとは無縁だった。つまり、啄木はヴ・ナロードであろうとしたが成り切れず、賢治はいつのまにかヴ・ナロードであり、光太郎はヴ・ナロードでなくて自ら救えとする立場だったのだ。
4.
ヴ・ナロードについて深く考えてみよう。ヴ・ナロードを実践する者は以下の三つの段階を進む。
ヴ・ナロードの三段階においては、啄木はいまだ第一の段階におり、賢治は最終段階にまで到っていた。
5.
啄木の『呼子と口笛』は日本初の社会主義詩集とされるが、ここに描かれる詩人は議論ばかりしており、実際には庶民の生活の中に入り込んでおらず、庶民の心に共感してもいない。詩人はヴ・ナロードと叫ばなければならないと決意しただけだ。ところが『一握の砂』では事情が変わっている。啄木は民衆のひとりひとりの人生に共感して作品の題材としてその心に寄り添っている。庶民歌の成立だ(ここで言う庶民は柳田国男の常民に近しく、大衆とも民衆とも、さては人民とも平民とも異なる、と敢えて言おう。大衆・民衆・人民・平民には政治的含意があるが、啄木の詠んだ庶民(啄木は「人人」とする)にはそのような意味合いはなかった。『呼子と口笛』では、社会主義的理想により庶民の生活世界が植民地化されたが、『一握の砂』では、庶民は庶民のままでいられており、いわば社会主義的理想による植民地から解放されたのだ。『一握の砂』の諸々の庶民歌はヴ・ナロードの第二段階の境地に近づきつつあるものだ。「忘れがたき人人」から啄木の庶民歌をいくつか紹介しよう。
詳細は青空文庫の『一握の砂』を読まれたし。
6.
賢治も庶民のひとりひとりを描く詩があるが、その手の作品は啄木の庶民歌ほどには多くはないようだ。もっとも、賢治が人間の個性を書き記す際には、なかなかの迫力でもって人物像が読者に立ち現れてくる。この迫力は、農業改革者であった賢治が、常に農民と共におり、常に農民として生きていたからかもしれぬ。気になることがあるとしたら(賢治の詩作品において人間が立ち現われて来るのは主に『春と修羅』の第二集または第三集あたりからなのであるが)、人間像の多くに暗い影が投げかけられていることだろうか。以下に『春と修羅 第三集』から二つ紹介する。一つは目、おそらくは仕事をさぼって酒を買いに行く連中の太々しい様を描き出しており、二つ目は、物事が首尾よく行かないので不満タラタラの男の姿だ。それを見る賢治の気持ちもどうにも複雑なようだ。いずれにせよ、人間なるものの姿が不気味なまでにくっきりと立ち現れている(賢治の『春と修羅』は青空文庫では第一集から第二集、第三集さらに補遺まで収められている。堪能されたし)。
7.
光太郎はしばしば芸術家と民衆を対立させて、孤高なる芸術家の立場に立って民衆を毛嫌いするが如し。『ぼろぼろな駝鳥』の「刃物を研ぐ人」や『暗愚小伝』の「山林」などは、愚衆を避けて山奥に籠もる孤高の芸術家を連想させる。ヴ・ナロード何するものぞ。光太郎は「カフエにて」という詩作品では、人間の有する醜悪なる諸要素を容認しながらも、その人間がひとたび群れて群衆となると、嫌悪を隠さずにはいないのだ。
8.
賢治のヴ・ナロードは、かの「雨ニモマケズ」に描かれている。
これが真のヴ・ナロードだ。世間の所謂ヴ・ナロードは政治臭が強く、啓蒙や革命に偏っている。上述の詩の通り、私はもう少し高い見地から眺めている。賢治の人生はまさしくヴ・ナロードであり、菩薩の慈悲的利他行の色彩が濃いのが知れる。
9.
啄木の『呼子と口笛』には、ヴ・ナロードの第一段階を示す作品が散見される。「はてしなき議論の後」には、各連の最後にはこんな言葉が繰り返される。
我等有為なる若人が憐れなる民衆を救わなければならぬ、なんぞと熱く論じながらも、誰一人として行動に移せていない(私は啄木を非難していない。高き理想を抱ける若者は似たり寄ったりの経験をする。いわば通過儀礼だ。私もそうであった)。しかし賢治は違う。賢治は既に農業の改革者であり指導者だった。威張ったところはなく、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ」(「雨ニモマケズ」)といったザマだった。高らかに理想を掲げたりもしたが、農民からすれば救世主でも何でもなく、部外の好事家でしかなかった。そして賢治はこんな言葉を聞かされる。
しかもこの菩薩詩人は「なんべんもきき/いまもきゝ/やがてはまったくその通り/まったくさうでしかないと」いうふうに、「あらゆる失意や病気の底で/わたくしもまたうなづくことだ」(『春と修羅 第三集』)と、苦い諦念を噛みしめざるを得ないでいる。賢治はヴ・ナロードの第三段階にいるのだ。賢治を啄木と比べるとすれば、私は啄木を非難しないのだが、それでも賢治のほうが人として理想的な生き方をしていると思う(辛い生活ながらも)。農業改革者としての賢治には失敗が少なくないにせよ、だからといって、そもそもいかなる人生を生きたところで誰しも過ちを犯すのだから、難ずる必要もない。
10.
光太郎の『道程』には「群集に」という作品がある。純情可憐なる恋愛詩を書き記したこの詩人は、その一方で大衆を毛嫌いしていた。真善美を知る「一人」の先駆者を理解せずに迫害するからだ。光太郎は群集をこんなふうに表現する、「むらがりわめき、又無知の声をあげるかの人々」「魂のない動揺(ゆらめき)」「いのちある事実にならない事実」「埋草にもならぬ塵埃の昂奮」などと。散々な言われようだ。大衆を愚衆として嫌悪する詩人には、ヴ・ナロードなんぞ夢のまた夢だろう。
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