不変の発見(1)
プラトンの師匠でもあったクラチュロスはこんなことを考えた。
クラチュロスはこんなことを考えて、ヘラクレイトスに反論して「二度と同じ川に足を踏み入れることができないのではない、そうでなく一度も踏み入れることができないのだ」とも考え、そして「何事も語るべきではない」との結論に至って、ただ指頭を動かしただけだったという。(このあたりは少し禅宗めいていて私の好きなエピソードであるが)
つまり、事物の変化は変化せざるものを拠点としなければ認識できないのである。仮に私が窓ガラスのない閉ざされたエレベーターに乗って、ゆっくりと等速で落下しているとしよう。私は慣性に従っており、自分が動いているとも感じられないであろう。階を移動することを示す電光掲示板が10階から9階そして8階へと移り行かないとしたら、私は私の落下を考えることも信じることもできないであろう。
いわゆる「無常感」もそうである。無常を知るためには、何か無常ならざるものに依って立つ必要がある。杜甫の「春望」は「国破れて山河在り/城春にして草木深し」から始まるが、ここで詩人は常変らぬ自然界を拠点として人間社会の無常を認識するのである。杜甫は常変らず存在する自然や四季の巡りといった観点に立って、はかなくも滅びる人間社会の有様を深く認識しているのである。
クラチュロス(あるいは杜甫)の説については疑問点もなきにしもあらずであるが、ひとまずは一つの見解として容認できるだろうと思う。すなわち、事物は変転極まりないものであるが、この変転の実情を正確に認識して何らかの学を確立しようとするならば、何か不変なるものに依拠しなければならないのであり、この不変に対する要求が哲学者たちを促して不変的元素の観念に至ったのではないであろうか。彼らは始めに不変の元素を見出して「見よ」と叫んだのではなくて、変転する事物を認識したいがために、不変なる「元素」がある、と仮定したのではないだろうか。
続く。
[1]『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編 岩波書店 219、DK.65,3