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循環する万物の根源

アリストテレスによる彼以前の自然哲学者の要約には強引なところがあるとの説があり、なるほどそういうところも無きにしも非ずなのだろうが、それなりにうまくまとめているところもある。

アリストテレスはこんなふうに言っている。

「最初に哲学に携わった人々の大多数は、ただ質料の型に属する原理のみが万物の原理であると思った、というのは彼等は凡ての存在者がそれから出来ているもの、すなわちそれを最初のものとしてそれから生じてき、またそれを最後のものとしてそれへ滅んでいくところのそのもの(というのは実体は根底に止りつつ、ただ様態によってのみ変化するのだから)、それを存在者の元素であり、原理であると主張し、またその故に何ものも生成することも消滅することもない、何故ならそのような本性が常に維持されているゆえ、と思っているからである。」(『形而上学』アリストテレス)[1]

これを私なりにまとめると、こんな感じになる。

質料的原理〔アルケー(万物の根源)〕
a)万物がそこから生じてそこへと滅する「終始点」であり、
b)「実体」として万物の根底にあり不生不滅であり、
c)「原理」として万物を統御する動者である。〔統御者〕

ここでは、a)に関してのみ述べようと思うが、少なくともアナクシマンドロス、アナクシメネス、クセノパネス、ヘラクレイトス、エンペドクレスについては、終始点としてのアルケーを述べている。(以下、太字は引用者)

タレスの弟子たるアナクシマンドロスにおいては、ト・アペイロンが万物の根源であり、万物はここから生成してここへと消滅する。

もろもろの存在者にとってその生成がそれから来たるところのそれらへ、またその消滅もそれぞれの負目によって、到る。(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)[1]

アナクシマンドロスの弟子たるアナクシメネスにおいては、万物の根源は空気であり、万物はここから生成してここへと滅する。そしてアナクシマンドロスとアナクシメネスがともに万物の根源を終始点としているのだから、タレスもそう考えたのだろう、とアリストテレスが推測したとしても、不合理ではないと思う。

「ミレトスの人アナクシメネスは、存在者の原理が空気である、という意見であった。何故ならこのものから万物が生じ、再びこのものへと解体していくからである。」(アエティオス、断片)[1]

思想的にはパルメニデスの流れに竿を差すクセノパネスもまた、万物の根源について語る。彼によれば、万物の根源は土と水である。ただ、私の持っている資料では、彼の態度は両義的であり、根源を土と言う時もあれば、土並びに水であると言う時もある。さらに、このような万物の根源を中心とする循環には二通りあり、一つは根源から個物が生じて個物が根源へと還ることであり〔個物循環〕、もう一つは根源から全世界(彼の言葉では「大地」だが)が生成して全世界が根源へと戻ること〔世界循環〕なのである。

「…凡てのものは土から生じ、また終に土へ凡てのものは帰る」(DK)[1]
「クセノパネスは大地と海との混合が生じてくる、そして時の経つうちに大地が湿ったものによって解体されると思っているが、その証拠として次のようなものを持っている、と主張している。すなわち、大地や山の内部に貝殻が発見される。またシュラクサイでは石切場で魚や海豹の跡型が、またパロスでは石の底に鰯の跡型が、またメリテでは海のあらゆるものの押しつけられて平たくなったものが発見される、と彼は言う。そしてそれらは、凡てのものが昔泥になった時に生じ、その泥の中の跡型が乾かされたものだ、と主張する。また凡ての人間は、大地が海に没して、泥になる時に、滅び、次いで再び生成が始まる、そしてこの変化は凡ての世界に起る、と主張する。(『全異教徒駁論』ヒッポリュトス)[1]

万物の根源は火であると唱えたかのヘラクレイトスもまた、このような循環説を奉じている。そしてこの循環は、クセノパネスの思想と同様に、個体循環もあれば世界循環もある。

「…万物は火から成立し、またそれへ解体する。」
「…全世界は…火から生れ、再び火に化するが、この過程は交替で、一定の周期を以て永遠に行われる。」(『哲学者列伝』ディオゲネス・ラエルティオス)[1]

そして四元素説を唱えたエンペドクレスもまた万物の根源を中心に据えた循環説を主張する。四元素は怒りの時代にあっては互いに分離しているが、愛の時代には接合し、こういったことが繰り返されるのであり、この繰り返しを通して、四元素は万物になり万物は四元素となるのである。

「…見るに明るく、いずこにても温き太陽を、またその熱と輝く光輝とに浸されたる凡ての不死なる部分〔空気〕を、また凡ゆるところにおいて暗く冷き雨を、而して土からは基礎の確たる固きものどもが流れ出る。そしてこれらのものは凡て怒の御代にありては、形を異に、離れているが、愛の御代にありては、一緒になり、互に相求める。何故なら、これらのものから、かつて有りしものも、現に有るものも、後に有るだろうものも、すなわち木々も、男女も、獣どもも、鳥どもも、水に養われる魚どもも、命長く位いと高き神々も、出できたるゆえ。何故なら、ただこれらものも〔要素〕のみにあって、互に駆けぬけつつ、いろいろな姿のものになるゆえ。」(『アリストテレス自然学の解釈』シンプリキウス)[1]

私はアカデミア界の人間でなく、引用の様式もよくわかっていないのであるが、私の言わんとするところが伝えられていれば幸いである。なお、ここでは私の資料は私が大学生の頃に購入した『初期ギリシア哲学者断片集』(山本光雄訳編、岩波書店)を使った。もう30年以上も前の本で、訳文はたどたどしく、昭和臭の香ばしいものかもしれないが、長年愛用しているので、どうにも愛着があるのである。

[1]『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編 岩波書店
[2]『ソクラテス以前の哲学者』廣川洋一 講談社学術文庫

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