ソクラテス以前覚書

以下は、ソクラテス以前の諸子の展開する自然哲学に関する覚書である。覚書である以上、思いつきが多く、論理の運びに拙い点もあるかと思われる。証拠もまだ挙げられぬ。いつか諸子の断片を引用しつつ、より緻密に論じたい。随時加筆修正する所存である。

1.ヒトは生き延びるためには事物の普遍的性質を知るのがよい。石は食えぬが林檎は食える。食えぬといっても、この石が食えるがあの石は食えぬというのではなく、また食えるといっても、この林檎は食えてもあの林檎は食えぬというのでもなく、どの石も食えぬのであり、どの林檎も食えるのである。このように、どの石も食えぬと知り、どの林檎も食えると知るというのが事物の普遍的性質を知るということであり、こういったことがわかってくればヒトの生存にも有利であろう。

2.ヒトの認識が特殊から普遍へと向かうのは進化のなせる技なのである。万物が進化し(カントの主張するように、宇宙すら進化するのだから!)、万物の一つたるヒトもまた進化するのだから、そして進化は生存がその前提条件となるのだから、ヒトが生き残るべく普遍的性質を理解するとしたら、それは進化という大きな枠組みの中における事象なのである。進化こそがヒトの認識をして特殊から普遍へと向かわしめるのである。

3.進化を通して、ヒトは特殊から普遍へと跳躍するのである。ヒトもまた進化する以上、この飛躍は不可避的なのである。この跳躍は古代ギリシアのミレトスにおいて起こった。その第一の具現者はタレスであった。そしてアナクシマンドロスやアナクシメネスが続いた。世にいうミレトス学派である。彼らは事物の普遍をアルケー論として探求したのであり、それは人間における知的進化を物語るのである。

4.もしxがあるXにとって大事な要素であるならば、xはすべてのXにとっても大事な要素であると考えられる。私は米を食らって今日を生き永らえ、明日も成長するのであり、米の無き世の中では私は今日一日すらもたないであろう。米は私には不可欠なるものである。だったら、あなたにとってもきっと米は入用であろう。米がなければあなたも明日の太陽を望むことができぬであろう。かくして米は万人にとって不可欠なる代物なのだ、と私は考えていくのであり、こうやって私の認識は特殊から普遍へと成長するのである。この論理の展開は粗雑ではあるものの、それでも必ずしも否定すべき代物でもないのであり、常に誤っていると断ずるべきものでもないのである。

5.もしxがXにとって不可欠なる要素であるとしたら、おそらくはxはXに先行するであろう。つまり、xがあって後にXが存在することであろう。単語を構成するのは一つ一つの文字である。単語は「単」と「語」という二文字から成るが、まず文字があって、その後に単語が出来上がるのである。その逆ではないのである。ある意味において、ある単語の本質を構成するのは、その単語を構成する各々の文字である(この箇所は比喩として理解されたし)。文字がなかったとしたら、そもそも単語は出来上がるはずもないのである。

6.もしxがXにとっての欠かせぬ要素であるとしたら、Xが崩壊した後にもxは残存するであろう。xがXに先行するのであるが、やがてXが「時の定め」に従って消えることになったとしても、xは消えずに残るであろう。「薔薇」なる単語が崩壊するとしても、「薔」と「薇」とは残るのである。


7.ソクラテス以前の諸子は次のように定式化した。すなわち、「xはXが生じるところのものであり、かつXが滅びゆくところのものでもある」と。あるいは彼らの言葉を拝借するとしたら、「アルケーは万物が生じるところのものであり、かつ万物が滅びゆくところのものでもある」と。

8.さらに、もしxがXにとっての本質的要素であるとしたら、xがXを牛耳っていたとしても何ら不思議ではないであろう。それはあたかも脳が人体にとっての本質的要素であり、従って脳が人体を操縦するのと同意であろう。かくして、元素的アルケー(後にヘラクレイトスは元素的アルケーと法則的ロゴスとを分離するのだが)が万物を操るのである。

9.かくして、自然哲学的思惟における三法則が確認される。一つは、xがあるXの本質を構成することから、xはすべてのXの本質を構成することが推論され、ついにはxこそ万物の本質である、とすら結論づけられる、ということである。次の一つは、xが万物の本質であるならば、そのxは万物の生成と消滅を超えて永続する、ということである。そして最後の一つは、xが万物の本質を成すとすれば、そのxは万物を支配する、ということである。

10.システムは複数の要素と複数の機能から成るが、ある機能を担うのが一つの要素のみで、他の要素がその機能を担い得ぬとしたら、それはシステムとは呼べぬ。山田家に九人の息子がいて野球チームをつくるとする。一郎・二郎・三郎から九郎までいるが、ピッチャーは常に一郎であって他の誰もピッチャーになれぬとしたら、山田チームはシステムを構成するとは言えぬ。ピッチャーは誰もがなれるわけではないにしても、一人しかできず、他の誰もできぬとしたら、それはシステムではない。一郎以外に三郎と九郎も投げられることになれば、それはシステムと呼べるのである。(20220221)

11.あるシステム内に、互いに離れている二点があれば、その両者は結びつきあおうとするし、結び付いてはネットワークを形成する。これが要素間ネットワーク形成であり、ここからシステムの生成につながるのである。(20220221)

12.要素間ネットワーク形成の視点に立てば、地球が一つのシステムを成すとすれば、グローバル化は必然であり、人類が宇宙に進出するのも必然であり、あるいは宇宙人が(存在すると仮定して)地球を(こっそり?)来訪するのも必然である。あるいは宇宙的規模においては、地球人が内気で宇宙進出なんぞに関心を抱かぬとしたら宇宙人のほうから来るであろうし、逆に宇宙人が内向的で自分の惑星で自己充足するとしても地球人からいつから遥々赴くであろうことになる。かくして地球人は宇宙人たちと一体化していくのである。(20220222)

13.レヴィ=ストロースの女性交換論も、あるいはそのアスディワル武勲詩においてその冒頭で母と娘とが互いに会おうとするのも、いずれもシステムのシステムとしての性質の現れである。それは離散的二点が結びついてネットワーク化することである〔要素間ネットワーク形成〕。(20220222)

14.システムは自らを維持するためには内部が高度にネットワーク化されているのが必要である。ネットワーク化というのは、各要素が相互に結合され、相互に作用し、各々が役割分担をすることであり、相互に補い合うことである。高度化とは、これらの事象が幾重にも折り重なり合うことをいう〔要素間ネットワークの高度化〕。(20220222)

15.タレスとアナクシマンドロスにおいては、アルケーが万物に変質するとしても、どのように変質するのかについては不明瞭だった。つまり、両者の世界観においては、アルケーと万物とがそれぞれ離散的に各々の場所(「場所」といっても空間的場所ではなくて概念的場所であるが)を占めるだけで、両者間のネットワークはいまだ形成されていなかった。システムがシステムとしてはまだ機能していなかったのだ。この未完の、あるいは隠匿されていたネットワークを完成あるいは顕現化したのがアナクシメネスであり、彼は濃厚化と希薄化なる二つの経路を見出したのである。(20220222)

16.自然哲学的世界観システムは、万物はアルケーから成り〔元素〕、アルケーから生じてはアルケーへと滅するのであり〔循環〕、そして万物を操る〔支配〕、という世界観である。そしてアナクシメネスはアルケーから万物へと移行する、あるいは万物からアルケーへと移行するところの経路を描き出すことによって、ネットワーク化の端緒を開いたのである。(20220222)

17.システムは個々の要素を超えたものである〔超越性〕。換言すれば、ある機能を担う要素は甲乙のどちらでもいいのであり、その意味ではシステムは形式的である〔形式性〕。そして別の観点からすれば、システムがシステムとしての機能を確立するためには、ある要素甲が否定されて別の要素乙へとなり得ることが示されなければならない〔否定性〕。この否定性はシステムの必須条件ともなるのである。あるシステムにおいて、甲が万物になり万物が甲になるという循環があるとしたら、甲は水であっても火であってもよく、あるいは空気であっても土であってもよいのだが、アナクシマンドロスにおいては、タレスが水であるとしたものを他の何ものかであり得るとしたのであり、自然哲学的世界観システムが真にシステムであり得るということを示したのである。つまり、アルケーは水であり、水以外の何ものでもないとすれば、タレスの世界観は水という一つの個物に限定されて、超越性(形式性)を失い、システムとして機能しない。タレスの世界観がシステムとなるためには、水であるということが否定され得なければならない。超越性は否定性を契機とするのである。アナクシマンドロスが水以外の何ものかであり得るとしたことで、タレス的世界観は否定性を契機として超越性(形式性)を獲得し、システムとなったのである。しかもアナクシマンドロスのアペイロンは四元素以外の何ものかを指し示すので、それが何らかの個物に限定されておらず、システムの超越性(形式性)が如実に示されるのである。(20220222)

18.タレスは世界観をシステムとすることの端緒を開き、アナクシマンドロスは否定性を導入することで超越性(形式性)を獲得してシステムを現出させ、アナクシメネスはアルケーと万物との間の変質経路を描き出すことでシステム内のネットワーク化の糸口をつかみ、ピタゴラスは宇宙の調和なる概念を提示することで全体性を獲得したのである。ソクラテス以前の諸子の共同作業により、システムがシステムとして成長する様が興味深く描かれていくのである。(20220222)

19.否定には絶対的否定と相対的否定がある。絶対的否定とはすべての存在、すべての有り様を否むことであり、端的にいって無である。相対的否定とは、ある物の代わりに別の物を据えることである。ある物が否定されるが、絶対的に否定されるのではないので無とはならず、従って別の物がその場所に置かれることになるのである。システムを絶対的に否定すればシステム自体が存立しない。然るにシステムを相対的に否定すれば、システム自体は否定されず、システム内部のある要素が別の要素と入れ替わる。要素は機能を担うので、ある機能を担う主体が別の主体と入れ替わることになる。つまり、アルケーが水からアペイロンに、あるいは空気に代わることが相対的否定である。(この考えはもう少し精密にする必要がある。)(20220222))

20.システムには自律性がある。自律性があるというのは、システムは個々の構成要素の意図あるいはふるまいを超えるということである。自律性とは超越性の言い換えである。人間のつくる社会的組織もいわばシステムであるが、組織は個々の成員の意図を超えて働くことがある。個々の成員が組織の存続を必ずしも望んでいなくとも組織は残存し続けることもあろうし、あるいは個々の成員が組織の末永い存続を願望しようともあっけなく滅ぶこともある。組織あるいはシステムは個々の成員の意図に沿って機能するとは言えないのである。(20220223)

21.システムとその成員は相互に作用する。システムが十全であれば各成員の生存と成長に寄与する。システムが不十分であれば各成員にも悪影響をもたらす。個々の成員がその持てる力を十全に伸ばしていればシステムもより安定的に発展する。然るに各成員が委縮する一方であればシステムも委縮しよう。(20220223)

22.21.と22.とは矛盾するが、それでもシステムの本質を表す。システムは成員から独立しながも依存する(成員なきシステムは存続し得ぬ)。逆に、成員もシステムとは異なる意図をもってふるまいつつ、システムなければ成員は存続できぬ。成員とはシステムの構成要素であるので、システムなき成員なるものは語義矛盾であろう。故に、システムと成員とは絶対矛盾的自己同一的関係にある。(20220223)

23.世界観システムとは、複数の世界観に共通する思考の枠組みである。ある世界観に反論し、しかも類似せる別の世界観を提示できるとしたら、それは同一の世界観システムを共有しているからである。世界観システムは共有財であって私財ではない。(20220223)

24.世界観と世界観システムとは異なる。タレス説はタレスの世界観であり、アナクシマンドロス説はアナクシマンドロスの世界観だが、両者の共通する世界観こそ世界観システムである。世界観が個人的なものであるならば、世界観システムは共同的なものである。自然哲学的世界観システムはタレスとアナクシマンドロスの共同作業の成果である。タレスがいなければこのシステムは成らず、しかしタレスのものではないのである。アナクシマンドロスがいなければやはりこのシステムは生成し得ず、しかもアナクシマンドロスの手のみに成るのではないのである。この世界観システムは形式的であるので、タレスの説もアナクシマンドロスの説も許容し得るのであり、さらに構成的でもあるので他の思想家の参与も拒まないのである。具体的に言えば、この世界観システムはアリストテレスの定式化したものであり、「(1)万物はアルケーから成り〔元素説〕、(2)万物はアルケーから生じてアルケーへと滅するのであり〔循環説〕、(3)万物はアルケーが操る〔支配説〕」というものである。このアルケーに「水」を代入すればタレスの世界観となり、「無規定なるもの」を代入すればアナクシマンドロスの世界観となるのである。世界観システムそのものは形式的なものであり、特定個物の特定性質を超越しているので、他の思想家がこのアルケーに他の個物を代入するのも妨げられないのであり、その意味で世界観システムは形式的であり、超越的であり、構成的(他の参与者を許して自らを構成するという意味で)なのである。(20220223)

25.「世界は調和している」と言ったところで、この言葉には実質的意味がない。どういった調和であるのかが一切不明であるので、内容空疎なる言説である。しかも「世界が存在する」ということは世界がいままでずっと存在してきたということであるので、つまり世界は滅んでいないということであるので、そこには調和が含意されている、なんとなれば調和とは持続的存在と同義であるからである。調和しているからこそ持続的に存在し続けているのである。存在とは持続であり、持続とは少なからず何らかの調和があったのである。そして存在の持続性はパルメニデスにおいて見いだされ、存在の調和性はピタゴラスおよびヘラクレイトスによって唱えられた。(20220223)

26.最初に存在が発見された。なぜ宇宙がそもそも存在するのか。それはアルケーによるのである。アルケーなる概念は存在に対する人間の覚醒であったのである。そして、存在は持続(パルメニデス)であり、調和を含意するので、ピタゴラスが調和概念を唱えたとしたら、それは存在の拡張概念となる。次の課題としては、ではどういった調和であるのか、となり、そこでピタゴラスは比を唱え、ヘラクレイトスは逆説的に闘争を見出したのである。(20220223)

27.矛盾とは、「甲か乙かのいずれかであり、甲であったら乙でなく、乙であったら甲ではあり得ぬ」という状態をいうが、矛盾は個人の世界観としては排除されるが、世界観システムとしてはむしろ必須条件である。この甲なり乙なりに具体的なる個物が入るとすれば、避けるべき矛盾となる。然るに、先述したように形式的なる矛盾であるならば、それはシステムがシステムとして存立するための必要不可欠なる一条件となる。(20220223)

28.クセノパネス説はミレトス学派とエレア学派とのいわば中間に位置する。何となれば、彼の元素説〔元素は土と水である〕はミレトス学派の流れに位置し、その形而上学〔非神話化と非人格神〕はエレア学派的だからである。クセノパネスは異なる二つの世界観を介在するのであり、これもまたシステム内部におけるネットワーク化の一例であろうか。(20220223)

29.タレスを端緒とする自然哲学的世界観システムには、〔アルケー→万物→アルケー→万物…〕といった繰り返しがあるが、この「アルケー」のところに「水」、そして「万物」のところに具体的な個物の名前を代入すれば、例えば〔水→魚→水→木→水→犬→水→石…〕といったふうになり、ここにピタゴラスにも似る超種的循環が確認される。というのも、ピタゴラスの輪廻転生説は、人間の魂は人間が死ぬと海の生物・陸の生物・空の生物に生まれ変わって、その後に再び人間の体に入りこむのであり、つまり〔人間→水中生物→陸上生物→飛翔生物→人間〕となるのであって、ここにタレスに始まる循環説と共通するものが発見されるからである。つまり、自然哲学的循環とピタゴラスの輪廻説とはある意味において同型なのである。さらに、アナクシマンドロスの進化説も検討すれば面白かろう。ある報告によれば、アナクシマンドロスは〔水と土→魚→人間〕という進化説を拵えたそうであるが、ここには超種的移行が見出されるからである。アナクシマンドロスの進化説は循環とは言えぬとしても、超種的ではある。まとめると、超種的移行がタレスに始まる自然哲学的世界観システムには見いだされる。アルケー循環では、生物たると無生物たるとを問わず、アルケーと万物とが循環する(循環は移行の一種である)。ピタゴラスの輪廻説では、人間と動植物との間を魂が循環するが、無生物は除外される。アナクシマンドロスの進化説によれば、循環ではなくて移行ではあるが、前二者さながらに生物間を超種的に移行するのである。(20220224)

30.自然哲学的世界観システムでは、タレスを例にとれば、木は死んで枯れ木となると、やがて水となってアルケーへと還ることになる。アルケーはアルケー以外の要素と結合しては木となっていたが、死ぬとアルケー以外の要素が分離してアルケーだけになるのである。つまり、〔アルケー→アルケー+諸要素→アルケー〕となる。ここでは、アルケーと諸々の副次的要素とが分離されることが含意されている。この分離を明確化したのがヘラクレイトスであり、彼は元素と原理すなわちロゴスとを分離したのである。アルケーは本質的支配的であり、副次的諸要素は非本質的被支配的であったが、同様にヘラクレイトスにおいては、ロゴスは本質的支配的であり元素は非本質的被支配的なのである。(20220224)

31.パルメニデスの世界概念はアルケー的である。アルケーが不壊不死であるようにパルメニデス的宇宙も不壊不死である。アルケーが分割不可であるようにパルメニデス的宇宙も分割不可である。アルケーが魂であるようにパルメニデス的宇宙も唯一にして無二なる神の如くである。あたかもエレア学派のアルケーを宇宙的規模に拡大すればパルメニデスの宇宙が獲得されるかの如くである。二つの概念は相似形をなすのであり、この相似性〔マクロコスモスとミクロコスモスの照応性〕もまたシステムの一側面であろうか。(20220224)

32.システムの諸特徴:自律性、形式性、超越性、共同性、相互性、否定性あるいは矛盾性、自己形成性、分化と統合。世界観システムとは、同一文化圏における幾多の思想家たちによって考案されたほとんどすべての世界観に共通する思考上の枠組みである。(20220225)

33.ソフィスト(ソクラテスを含む)は自然哲学的世界観システムとは全く異なる世界観を提示した。プラトンは世界観システムの超越性をイデア論として詳述し、アリストテレスはこのシステムの形成過程(構成性)を哲学史として叙述した。(20220225)

34.システムには成員と機能があるが、システムは成員が入れ替わってもシステム自体の存立に影響はない〔超越性〕。いってみれば、システムとは「a(b×c)=ab×ac」の公式のようなもので、aが2であれ5であれ公式の妥当性は身じろぎもしないのと同じである。システムは個々の成員の実質とは無関係なのである〔形式性〕。だから、システムはシステム自体として、個々の成員のふるまいとは別に、独自の在り方をしている〔自律性〕。システムには個々の成員とは別に独自の法則性があるのである。ということは、システムを作り出すのは思想家たちであるが、思想家たちの意図から離れており、あるいは世界観とはいえ、世界の現実の在り方からも自由であり得るのであり、複数の思想家の巧まざる共同作業の成果なのである。(20220225)

35.タレスに始まる自然哲学的世界観システムに対して全く異なるソフィスト的人為的システムが提示され、それへの反論過程を通して道徳的なるソクラテス的倫理的システムが唱えられ、この後二者は自然哲学的世界観システムが自然であるのに対して人事であるが、その後にこれら三者の自然と人事とを統合するものとしてストア的統合世界的システムが現れたのである。ストア派の例の「自然に従って生きよ」における自然とは、(1)自然界の法則であり、(2)人間社会における自然法であり、さらには(3)道徳を主導する人間理性でもあるのであり、ここにおいて(1)は自然哲学的世界観システムを受け継ぎ、(2)はソフィスト的人事システムを反映し、そして(3)は道徳的なるソクラテス的倫理的システムを映し出しているのであるから。(20220225)

36.例えば水が木になり木が水に戻る場合を考えてみる。「水が木になる」というのは、素朴に考えれば、水に水以外の何らかの性質が加わって木になったものであろう。そしてその木が水に戻るというのは、木から水以外の要素が分離して水が残るものとみなされ得る。すると、ここでいう「水以外の何らかの性質」「水以外の要素」は水ではないことになるが、そうなると「万物の元素は水である」という命題が否定されることになる。〔水→万物→水〕というタレス循環は、「水は万物の元素なり」という元素説と矛盾することになるのである。このタレス的世界観に内在する矛盾を解消すべく新たに唱えられたのが四元素説であり、あるいは原子説である、と言えるのではあるまいか。

もっとも、この私の見方には疑問がある。タレス説についてはアリストテレスは「実体は根底に止りつつ、ただ様態によってのみ変化する」と言い(『初期ギリシア哲学者断片集』6頁)、ところがアナクシマンドロスを説明する際には「凡てのものは始源であるか、或は始源から派生したものである」(『同』9頁)としているが、この二つの説明は一致しないからである。上述の私の書いたタレス解釈は、アリストテレスがアナクシマンドロスを解説したものと合致して、タレスを説明したものとは異なるからである。元素〔様態変化するもの〕と始源〔産出するもの〕とでは意味が異なるが、タレスにおいてはアルケーの水は元素であるが、アナクシマンドロスにおいてはアルケーの無限なるものは始源なのであり、いずれも(ずる賢いことに)アリストテレスにおいては「凡ての存在者がそれから出来ているもの、すなわちそれを最初のものとしてそれから生じてき、またそれを最後のものとしてそれへ滅んでいくところのもの」(『同』6頁)とするが、ここでの「凡ての存在者がそれから出来ているもの」とは元素であり、「それを最初のものとしてそれから生じて」くるものは始源であるのであり、アリストテレスは本来は別々であるものを一つのものとみなしているのである。(20220226)

アリストテレスは『形而上学』ではアルケーを定義するが、そのやり方とえば、その複数の使われ方を列挙して、そこから共通点を抜き取るのである。しかしこれでは多義的なる用法が残存しかねないので、そこでアリストテレスの定義は明快ながらも不明瞭となるのである。例えば、第5巻第1章ではアルケーを「事物が第一にそれから生成し且つその生成した事物に内在しているところのそれ〔すなわち事物の第一の内在的構成要素〕」としてその例として「家ではその土台石の如き」とし、また「それから生成したその事物のうちには内在しないで、しかもそれからこの事物が第一に生成し来り、それから第一にこの事物の運動や転化が自然的に始まるところのそれ」でもあって、「たとえば、子供がその父母から生まれ」た場合とする。他にもいろいろと列挙しているが、結論としてはアルケーとは「それらのいずれも当の事物の「第一のそれから」であること、すなわちその事物の存在または生成または認識が「それから始まる第一のそれ」であること」とするのである(『形而上学』岩波文庫)。つまり、家の土台石もアルケーならば子供にとっての父母のアルケーなのであるが、前者はいわば元素であり後者は始源であって、両者は本来は別々の物であるのに、これをどちらも「アルケー」と呼ぶのである。アルケー自体が少なくとも二義的であるので、タレスの元素としての水とアナクシマンドロスの始源としての無限なるものも、どちらも同一視されることになるのである。いずれにせよ、私がここに書いたものは再検討を要する。(20220226)

37.アナクシマンドロスの公式としては次のようなものである。〔無限なるもの→冷熱、乾湿→万物〕であるが、その際にこう考えられる。すなわち、無限が有限となることはあり得ぬ。だから無限なるものが有限なる万物へと変質するとは言えぬのであり、従って無限なるものが有限なるものどもを生んだと考えるべきである。するとここに見られるのは変質でなくて産出である。無限なるものは元素でなくて始源である。始源が元素たる冷熱、乾湿など産出するのである。アナクシマンドロスでは産出から変質の過程があるのである。(20220226)

38.アルケーには元素と始源の二義がある。始源については、例えば父母が子供を産む場合であり、悪口雑言が紛争を産む場合である(アリストテレス『形而上学』第5巻第1章)。元素については、例えば船とその竜骨、家とその土台石、動物とその心臓または脳髄であり(『形而上学』第5巻第1章)、あるいは美的に成り教養的に成ったソクラテスとソクラテスその人である(『同』第1巻第3章)。アルケーの始源性はさておき、元素性について考えてみる。家とその土台石でいえば、家の一部が土台石であり、美的ソクラテスはソクラテスに美が加わったのであるが、すると家とは土台石に別の材料が加わったものであり、美的ソクラテスとはソクラテスその人に美という別の素材が加わったものとなる。つまり、この別の素材は土台石でなく、ソクラテスその人ではない。するとアルケーは「万物の」元素ではないことになる。この考え方に沿っていえば、仮に水が木になりまた水に戻るとすれば、〔a→a'→a〕でなくて〔a→ab→a〕となり、a≠bであるのだから、万物の根源は「万物の」根源ではなくなるのだ。アルケー説に内在する矛盾であろうか。(20220226)

39.二つの世界観システムが交渉し統合されていくことがある。自然哲学とソフィストの両システムが「ある観点から」ソクラテスによって総合され、さらにこれら三者のシステムがストア派の「自然に従って生きよ」という命題において統合される。また、ミレトス学派のアルケー・システムとエレア学派のパルメニデス・システムもまたクセノパネスにおいて統合される。システムは単独ではあり得ぬ。つまりあるシステムがあれば別のシステムもあり、両者はやがて交渉し統合されて大システムを作り上げるのである。(20220227)

40.ピアジェの構造概念によれば、構造には全体性・変換性・自己制御性があるそうであるが、私のいうシステムの性質としての自律性、形式性、超越性に相当しそうである(32.を参照されたし)。そしてタレスに始まりアリストテレスにおいて一応の完成を見る自然哲学は、ピアジェ風にいうと、ある構造の構成的側面が生き生きと表されていると思われる。つまり、自然哲学は生ける構造であり、長ずる構造なのである。(20220227)

41.クセノパネスには、ミレトス学派的アルケー説があり、またエレア学派的神観念があるが、どちらも彼の脱神話化路線から生じている。すなわち、神々が万物を生んだとする神話を否定し、万物は土と水とから自然発生したとし〔アルケー説〕、そして擬人的神話観念を批判して非人格的神としての宇宙的一者を据えたのであるから。かくしてクセノパネスはミレトス学派とエレア学派の架橋であるが、その中心には、あるいはその共通項には、脱神話化があるのである。(20220228)

42.日下部吉信は、ヘブライズムの第一命題を「世界の無からの創造」であるとし、これが工業性であり近代テクノロジーの依って立つ基盤であり、ここに地球支配の発端がある、とする(『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から』明石書店、26頁、61頁、66頁)。然るに、技術には「作る」側面もあれば「使う」側面もある。我々は便利な自動車を造ったら、次はそれを使うのである。作ることだけが技術なのではない。物を作り、物を使って我々は快適な暮らしを作り出しては余暇を享受するのである。そしてこの「使う」ということは「操る」ことであるが、この操るという概念はすでにタレスにある。彼は有能な技術者であり、自然界の改造者であり、自然の改造を通して自然を自由に操ったのであり、そして自らの生活を不快にせずにすんだのである。すなわち、タレスはハリュス河の流れを変えてクロイソスの軍隊の渡河を防いだのである。そもそもソクラテス以前の諸子には自然科学的側面が濃厚であり、この合理的傾向から当然ながら技術が生じるのである。ヘブライズムは知よりも非合理なまでに愛に重点を置くので、知はあまり発達せず、故に自然に対する技術支配力もベーコンの時代まで高まらなかったのである。(20220305)

43.タレスが言ったとされる言葉と、アリストテレスによるタレス解釈。一部には、アリストテレスがタレスの思想を捏造した、と非難する向きもあるようだが、確かにアリストテレスによるタレス解釈は行き過ぎの感もなくはないが、それにしてもタレスの言葉とアリストテレスによるタレス解釈との間に矛盾がなければ、アリストテレスによるタレス解釈にも幾分かの理がある、と考えるべきであろう。(20220314)


44. アトム説は単独説ではなくて共同説であり、四元素説と並置さるべきではなくて四元素説から進化したとみなすべきである。

45.アルケーは始終点であり、ここから循環概念が得られる。例えばタレスにおいては、水が水ならざるものと化し、またこの水ならざるものがやがて水へと還るのである。


46.元素は四元素ではない。元素はその性質上無限なるものであるが、もし四元素におけるある元素が無限ならば、その他の対立する元素はすでに滅ぼされていることであろう。[1.9.23]

47.タレスによれば、宇宙全体のうちにも魂が混合されている」(1.7.17)のであり、従って宇宙の何処を見ようともそこには魂があるのだが、水が万物の根源であるのであり、宇宙の何処に何があろうともその物は水を含むのであり、故に魂とは水である、ということになる。つまり、水は万物の根源であり、万物とは宇宙のあらゆるところにあるあらゆる物であるのだから、水はあらゆるところにあるのであり、また宇宙全体に魂が混合されているのだから、魂は宇宙にあまねいており、故に水とは魂であることになる。[1.7.17、1.6.16]

48.水とは魂であり、宇宙のあらゆる物にあまねいているが、タレスは「万物は神々に充ちている」と述べており、故に〔水=魂=神々〕という等式が得られる[1.7.17]。そしてこの魂は動かす者でもある。

49.万物の根源は不生不滅であるが故に常住であり、万物を生ぜしめるとともに万物が滅するところの始終点であり、万物を動かすところの起動者であり、さらに限定されざるところの無限者でもある。無限というのは、例えば水はとても熱い火のあるところでは干上がるので水には限界があって無限ではなく、あるいは火は大量の水を浴びれば容易に消えるので火にも限界があって無限ではない。この意味では無限とは不死不壊[1.9.22]であることであり、常住なのである。

50.万物の根源が起動者であるというのは、タレスは魂を動かすものと考え[1.9.17]、アナクシマンドロスは凡てのものを操るのが始源であり無限であるとした[1.9.22]、ということからもわかる。

51.水と火は互いに対立し限定し合うので、どちらも無限ではない。四元素は何であれ他の元素に対して何らかの意味で対立するので、従って互いに限定し合うので無限ではあり得ぬ。そこで無限的始源者(=万物の根源)は何か四元素とは別のものとなる[1.9.23]。この対立性は温冷・乾湿などとされ[1.9.21]、またこれらの温冷・乾湿を四元素に絡めて言えば「空気は冷く、水は湿り、火は熱い」とされる[1.9.23]。これがアナクシマンドロスの見解である。無限的始源(=万物の根源)は「一つで単純な無限の物体」[1.9.23]である。故にそれは形而下なるものであり、何ら超越的ではない。つまり万物の根源は四元素でなく、四元素を生みすらするものであり、かつ物体である。この三つの性質はアトム説にも幾分通じるものである。

52.アナクシメネスは、空気は神であり[1.13.35]、人間は空気でありかつ魂は空気から成る、とした[1.14.37]。万物は空気から生じて空気へと解体されるものでもある[1.11.30]。

53.クセノパネスは言う、「凡そ生じてきて成長するかぎりのものは土と水」であり、「何故ならわれわれ凡ては土と水とから生じてきたから」であり、「凡てのものは土から生じ、また終に土へ凡てのものは帰る」のである[1.28.70]。これは始終点としての土と水である。クセノパネスの論証は具体的であって思弁的ではない。万物の根源として土と水の二つを仮定した理由は以下の通りである。即ち、大地や山の内部に貝殻が、石切場に魚・海豹がの跡型が、石の底に鰯の跡型が、そして海のあらゆるものの押しつけられて平たくなったものが、発見されたからである。これらは凡て昔泥になった時に生じ、その泥の中の跡型が乾かされたのであり、そして凡て人間は大地が海に没して泥になる時に滅び、次いで再び生成が始まる、そしてこの変化は凡ての世界に起こるのである[1.28.71]。

54.万物は根源から生じて根源へと滅する。これが循環であるが、この循環には二つある。一つは物質循環であり、もう一つは世界循環である。タレスなどの〔水⇔万物〕は物質循環であるが、クセノパネスやエンペドクレスの言うところの、万物の根源から世界が生じてはまた世界は万物の根源へと滅する、というのは世界循環である。なお物質循環の一つにピタゴラスなどの唱える輪廻転生(即ち肉体循環)がある。

55.問いと答えは構造を同じうし、問いは答えを含むので、問いの構造を十全に展開すれば答えは得られる。問いは答えへと成長し高度化しさらに構造化するのである。然るに展開(あるいは成長)は時間を伴う過程である。ただし問いが答えを含むとしても、それは潜在的なるものである。昆虫において幼虫が成虫へと成長する場合、幼虫の身体的条件内部に成虫へと至る条件がすべて備わっているが、それは潜在的なるものであり、またこの潜在的可能性は時間を経て顕現するのである。

56.タレスは、例えば木から一本の枝を切り取って、その断面に水分が滲んでいるのを見て、「うん、この木は実は水からできているんだね」と言ったのではない。タレス説は本当は物質観ではなくして世界観なのである。即ち、「水こそが世界のあらゆる物をつくりあげ、あらゆる物を操っており、そして(時間的に言えば)あらゆる物の始まりと終わりに位置するのだ」と考えたのである。物体の本質にでなく世界の本質に水を据えたのである。ただしタレスの説は端緒に過ぎず、十全に展開されなかった。この世界観の完成は後の思想家の出現を待たねばならなかった。

57.ゲームとは負け得る状況であり、勝つため知力・体力・精神力のすべてを尽くし、人の人としての生を促進することである。じゃんけんはそのゲームの一例である。負け得る状況が設定されなければゲームはゲームとして機能し得ぬ。ゲームは構造である。ゲームは規則の体系であるが、規則の有り方から定義に入るならばゲームの内的定義であり、ゲームを行う人の有り様に力点を置けばゲームの外的定義である。ウィトゲンシュタインがゲームを定義不可能としたのは内的定義をしようとしたからである。私が何故ここでゲームの定義を試みたかといえば、ソクラテス以前の諸哲学者たちの諸説は全体として一大体系〔=一大構造〕をなすと考えるからであり、そのためには構造理念の明確化が必要であるが、その構造の一例としてゲームがあるので、試みにゲームを定義してみたのである。

58.哲学は共同探求であり、ある人物が自ら抱いた問いに対してすぐに答えが出ないにしても、その後の世代が弛みない努力を続けていけば、いつしか誰かしらの口から答えがふいに出てくるものである。いわばラッセルの法則の継承版である。アポリアは答えに向かう一道祖神に過ぎぬ。アナクシマンドロスの万物根源説は答えにはなっていないにしても、デモクリトスのアトム説に至る一関所である。

59.タレスの水説は飽くまでも世界観であるのだから、論理的には世界循環の概念が物質循環のそれに先行する。物質循環を唱える者は理の勢いで世界循環を説くに至る。それがクセノパネスであり、ヘラクレイトスであり、あるいは後のストア派である。その他の面々はそこに至るまでには十全には論が展開されなかった。

60.タレスの提示したものは一つの世界観でって、万物の根源が水であるのかどうかは、実のところ些末なことに過ぎぬ。このタレスの世界観を後に定式化したのがアリストテレスであった。この世界観を仮にタレス・システムと呼ぶ。そしてこのシステムに幾分反発したのが、アナクシマンドロスであった。何故なら、アナクシマンドロスのト・アペイロン説はタレスに始まる四元素説からは漏れるからである。

※44.~60.においては、(  )内は、1.書名、2.頁、3.頁内番号である。
1. 「初期ギリシア哲学者断片集」山本光雄訳編

61.一システム内においては、孤立する二要素が互いに結びつき、システム間においては、孤立する二システムが互いに結びついてはさらなる大システムを構築する。前者はシステム内ネットワーク形成であり、アナクシメネスが該当し、後者はシステム間ネットワーク形成であり、クセノパネスが相当する。クセノパネスに関しては、一人の哲学者が互いに異なる二つの世界観を披露しているが、これら二つの互いに異なる世界観が一人の思想家の脳内にて結びついたので、システム間ネットワーク形成に当たるのである。



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