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6. エレアのパルメニデス

※※以上の"A Presocrated Reade"の6.パルメニデスの訳です。比較的自由に訳しています。不十分な箇所があれば後ほど修正します。

エレアのパルメニデス(エレアとはいまのナポリの近くにある、今日ではヴェリアと呼ばれるイタリアの町である)の生涯に関する最も信頼の置ける報告によれば、パルメニデスは紀元前515年頃に生まれた。ディオゲネス・ラエルティオスが言うには、彼はクセノパネスの弟子であったそうであるが、「しかしクセノパネスに従わなかった」と(つまり、クセノパネスの見解は採用しなかった)。彼はまた言うのであるが、パルメニデスはその生涯の一時期にピタゴラス派の人々と付き合いがあったそうである。これらの報告が正しいのかどうかは知るよしもないが、明らかだと思われるのは、パルメニデスはクセノパネスによって提示された知識に関する疑問に答えることに関心があったことである(時に主張されているように、クセノパネスの最大の神[第4章断片13を見よ]についての記述がパルメニデスの存在するものについての記述に影響したかどうかは、それほど明らかではない)。パルメニデスがピタゴラス主義を知っていたとしても驚くことはあるまい。エレアの町はイタリアの南部にあり、ピタゴラス主義的団体の運動の本拠地だったからである。

クセノパネスと同じく、パルメニデスも韻文で物を書いた。パルメニデスの詩はホメロス流の六歩格であり(訳注;強く読む音節が1行に6カ所ある詩)、ホメロス的描写、特に『オデッセイ』のそれと似たものが多い。詩の中ではパルメニデスは若者を登場させ(ギリシア語ではコウロス)、二輪馬車に乗ってある女神ものとへと連れていかれる。女神に言われることといえば、彼は「森羅万象」を学ぶであろう、ということである。さらに、女神にコウロスが伝えられていることは正しいと言われる間に、女神が強調するのだが、若者は女神の説く主張を自分で吟味し評価しなければならないのである。パルメニデスは古代ギリシアの思想家の間では最も重要であり、かつ最も物議をかもす思想家でもある。彼の見解の細部については、学者の間にも多くの見解の相違がある。パルメニデスの詩は長い序文から始まる(『詩』B1)。この後に続くのはいわゆるドクサ(思惑)の部(「信念」または「意見」)であり、この宇宙論は、と女神は警告するのだが、何らかの点で人を惑わしやすいのである。『真理』の箇所では、真の思惟と知識は真に存在するもの(有るもの)についてでしかあり得ない、とパルメニデスは主張する。というのも、有らぬものは文字通り言葉にできないし伝えられもしないからである。パルメニデスは彼の言うところの「道徳的信念」に対して、まったくもって感覚経験に基づいて、警告するのである。このような道徳的信念においては、女神は「真の信頼などは存在しない」と言うのである。そうではなくて、有るものは必然的に有り、有らぬものはあり得ぬ、という根本的主張から帰結するものを理解すること(これは理性の能力であるが)によって、私たちは判断しなければならないのである。詩は(非常に重要な断片B8において)真なる存在の特徴を続けて探求する。有るものは全体、完全、不変、そして一なるものである、と言うのである。有るものは生成も消滅もせず、何ら質的変化も蒙らない。かく有るもののみが思考によって把握され、真に知られ得るのである。

このような主張を考えると、パルメニデスの先行者による物事の在り方についての記述は受け入れられない。パルメニデス以前の見解はその理論上考えられる基底的実体の根本的変化を要請したり、あるいは正反対なるものの現実やその一体性に依存していた。パルメニデスによれば、すべてこれらは有らぬものの現実性を前提とし、それゆえにこの義論はうまくいかないのである。現代の学者にとって、パルメニデスの考えについて特に興味深い側面は、感覚経験の世界を非現実的なものとして拒絶して、女神がドクサの箇所で自身の宇宙論へと話を続ける、という点にある。これは他者の見解のパロディのつもりなのであろうか。せいぜいこんなことしか、人間の感覚に現れる世界については言えないのだろうか。聞き手にとって、パルメニデス的宇宙論がそもそも受け入れられるかどうかを検証することは一つの教訓なのだろうか。これに関しては、パルメニデスの読者の間には論争の余地はほとんどない。明らかに、クセノパネス並びにヘラクレイトスと形而上学や認識論についての関心を共有する一方で、パルメニデスこそが哲学理論そのものについてのメタ理論上の疑問の重要性を理解し、かつ自らの主張について包括的主張を提供した最初の人物なのである。これらの主張は強力であり、パルメニデスの知識・存在・変化についての見解は、後のソクラテス以前の諸子に対してのみならず、プラトンやアリストテレスに対してもまた、深刻な理論上の挑戦であったのである。

1.我が魂の願う如くに遥かまで私を運ぶ馬どもは
私を連れて行った、馬どもは私を連れてかの名高き道を進んだのだ、
その道は女神たちの道であり、知者を一つ一つあらゆる都市へと
案内する道であった。
道中、私は馬車を操りつつ、賢い馬どもの背に乗って連れていかれ、
乙女たちは私を導いていった。
車輪の中央の車軸は角笛のような明るい音を
高らかに鳴らし出しており、
燃え立っていた、というのもそれは両端の二つの丸い車輪によって
急き立てられていたからであり、太陽の娘らが、
その手で顔からヴェールを後ろへ払いながら、
夜の家から立ち去った私を、光の方へと
急いで連れていこうとしていたからである。
昼と夜の二つの道には二つの門があり、
それぞれの門の上にはまぐさ、下には石の敷居があって、ぞれぞれの門を囲う。
天高く二つの門には巨大な扉が所狭しと広がり、
復讐と正義の女神であるディケがそのカギを手にしている。
乙女らは優しい言葉でディケを慰め
巧みに説き伏せて、すぐに門からかんぬきを外させた。
そして軸受けの中で釘や鋲で締められた
青銅の軸を交互に回しつつ、
乙女らが扉を開くと、空隙が口を開くのだった。
乙女らは二輪馬車と馬どもを操り、
まっすぐに門を抜け、広い道へと出たのであった。
すると女神らは私を温かく迎え入れ、私の右手をその手に取って、
そして次の言葉を私に伝えるのだった。
若者よ、不死なる御者どもに伴われ、
汝の連れて来た馬どもにより、我が家に到る者よ、
汝を歓迎しよう。汝をしてこの道へと進ましめたのは
(この道とは人間どもの行く道から遥か離れた道であるが)
邪悪なる運命ではなくて、公平と正義なのだから。
汝が森羅万象を学ぶのは正しいことである
森羅万象というのは、円き真理の揺ぎ無き核心と、
死すべき者どもの真には信頼できぬ思惑と、である。
にもかかわらず、汝は以下のことどもも学ぶのである、
すなわち、あらゆる事物を貫通しつつ、人間は現に見える事物をいかに判断すべきなのか、を学ぶのである。

2.いまや来たれ、我は汝に教えよう。そして汝は
聞き終えた時には、この物語を故国へと大切に持ち帰れ。
この物語こそ思索のための探究の唯一の道である。
一つは、有りそして有るものは有らぬことができぬ、という
説得の道である(それは真理に仕えるのだから)、
一つは、それは有らぬのでありそれが有らぬというのは正しいということである、
我は汝に宣言するが、まさにこれこそが全く探究できぬ道である。
というのも、有らぬものは知り得ず(それは成し遂げられぬ故)
有らぬものは公言できぬからである。

3.というのも、思惟と存在とは同じものだからである。

4.しかし、存在はしないけれども、知性には確実に存在するものを見よ。
というのも、有るものは有るということに固執することから切り離し得ぬからである、
たとい有るものが整然とあらゆるやり方であらゆる場所に散らばっていなくとも、
あるいは集まっていないとしても、である。

(訳注1;「有るものは有るということに固執することから切り離し得ぬ」の箇所は、英訳では"you will not cut off what-is from clinging to what-is"となっており、ここでは1つ目の"what-is"を「有るもの」として、2つ目の"what-is"を「有るということ」と訳したが、疑いは残る。他にもwhat-isを「有るということ」という意味で解釈したところもある)
(訳注2;最後の二行は『ソクラテス以前の哲学者』(廣川洋一著)では、次のようになっている。

そのあるものが、いたるところに、あらゆる仕方で、秩序をなして散らばっているにしても、
集まっているにしても

つまり、『ソクラテス以前読本』の英訳では否定文になっているが、廣川訳では肯定文になっている。肯定文のほうが意味は通りやすいと思うが、他の英訳(WikisourceにあるFragments of Parmenides)を見ても否定文になっている。総じて、パルメニデスの文は訳しにくく、意味が取りにくいところが少なくはない)

5.…我にとっては、どこから始めようとも同じなのである、
というのも、その場所へと我は再び戻るからである。

6.有るものが有ると言い、かつ考えることは正しい、
というのも、有るものは有り得るが、有らぬものは有らぬからである。
これらのことを我は汝に熟慮するように命ずる、
というのも、我は汝をこの第一の探究の道から、
そして死すべき者どもが、何も知らずに、双頭でさ迷うこの道から、
汝を遠ざけるからである。
というのも、人間の胸中の無力さがそのさ迷える心を操るからである。
人間どもは、耳の聞こえぬ者も口のきけぬ者も同様に、連れていかれ、
呆然として、判断力もなく、群れを成して進むが、
この人間どもにとっては、有ることと有らぬこととは同じであり、かつ同じではないと考えられており、
この道は逆向きの道なのである。

7.というのも、有るものが有らぬということは決してあり得ぬから。
汝はこの探究の道から離れていなければならぬ、
そして汝は経験に富む習慣によってこの道へと強いられては
漫然と物事を見、耳鳴りしつつ聞き、
語ってはならぬ。そうではなくて、汝はロゴスによって
判断せねばならぬ、我が語る論争多き考察を、である。

8.物語の道がまだ一つ残されている。
この道にはとても多くのしるしがある、
そのしるしとは、有るものは生成も消滅もせず、
完全にして不動であり無終である、というものである。
有るものはかつて有ったものでなく、これから有るであろうものでもない、
なぜなら有るものはいま有るものであり、一斉であって連続的である。
有るもののいかなる起源を汝は探すというのか?
いかに、そしてどこから、有るものが長じたというのか?
有るものが有らぬものから生じたとは、我は汝に言わせぬし考えさせぬ。
なぜなら、有らぬものは考えられず言うこともできぬからである。
もし有るものが無から生じたとすれば、いかなる必然性により
有るものが遅くではなくて早く生じたというのか?
それ故に、有るものは完全に有るものであるか、もしくは完全に有らぬものであるか、のいずれかである。
真の説得の力もまた、有るものを除いて、何ものかが有らぬものから有らしめられることを決して許さぬであろう。
この理由のために、正義の女神はその足枷を緩めて生成させたり消滅させたりすること許さずに、
足枷を固くするのである。そしてこれらのことについての判決は以下の点にある。
それ故に、判断すべきことは「有るか有らぬか?」に基づくのである。
そして必然的なことであるが、一つの道(=有らぬものの道か。訳注)は考えず名づけないままにしておくことが決定されたのである(というのも、それは真の道ではないから)、
そしてもう一つの道があり、それは真の道なのである。
では、有るものはその後はどのようになるのか? そして、どうやって有るものは生成するのか?
というのも、もし有るものがかつて生じたとすれば、それは有らぬことになるからであり、 
たとえ有るものがこれから生じるのであるとしても、それは有らぬことになるからである。
かくして、生成は消し去られ、消滅は探求され得ぬのである。
また、有るものはあらゆるところで一様であるので分割もできぬ。
さらには、いかなる所でも他のところよりも多いということはあり得ぬ、
分割すれば有るものは一体であることができぬであろうからである、
そしていかなる所でも他の所よりも少ないということもあり得ぬ、
そうではなくて有るものはすべて有ることに満たされているのである。
それ故に、有るものはすべての所において連続的である。
というのも、有るものは有るということに固執しているからである。
しかし、有るものは大いなる鎖の繋がりの中で不動であり、
始まりも終わりもない、
なぜなら生成と消滅は遠くに追い払われるからであり、
正しき信念がその両者を退けるからである。
有るものは常に同一であり、常に同じ位置に安らいでおり、
それ自体において留まっているのである。
というのも、厳しい必然性により、有るものは、あらゆる点でしかと固定する限界の繋がりの中において、保たれるからである。
有るものは自己充足的なのである。
もし有るものが自己充足的でないならば、それはあらゆるものを必要とするだろう。 
考えられ得るものは、有るが故に考えられるものと同じである。
というのも、何かが存在しなければ、その何かについて考えられないからであり、この何かについて言い得るのであるから。
有るものの他には何も有らぬのであり、これからも有らぬのである、
なぜなら運命が鎖をかけて有るものを完全かつ不動にしたからである。
すべて次のようなことどもは、死すべき者どもが真であると思い込んで名づけるものに過ぎぬのだ、
生成や消滅、存在や非存在、場所の変化や輝く色の変化などがそうである。
なぜなら、有るものには究極の限界があり、あらゆる側面で完全である、
それはまるで球体のようであり、中心からあらゆる方角に等しく釣り合っているのである。
というのも、有るものが等しく伸びるのを妨げ得るものはないからでありで、
こちらにはより多くて、あちらにはより少ない、ということは有るものにおいてはあり得ないからである、
なぜなら有るものは神聖不可侵だからである。
それはあらゆる方角において自己自身と等しく、均一にその限界と出会う。
ここで、我は汝のために真理に関する信頼の置ける我が説明と思惟とを終えよう。ここからは、死すべき者どもの思惑を学ぶがよい、我が言葉の偽りの体系に耳を傾けながら。
というのも、彼らは自らの判断において二種類の体系を作り上げて名づけたのであり、
そのうちの一つに名づけるのは正しくないことであり、
―この点で彼らは道に迷っているのであるが―
そして彼らは姿かたちにおいて相反する物どもを区別し、
互いに相反するしるしをつけた。
一つには、炎のように輝くアイテル的火であり、
それは穏やかで、きわめて軽く、あらゆる方角で自己自身と同一であり、
しかしもう一つのものとは同じではない。しかしそのもう一つのものは、
本質的に正反対のものである―暗い夜で、濃厚にして重たい物である。
我は汝に宣言するのであるが、すべてこの体系は見た通りのものであり、
いかなる死すべき者の判断であるとて、汝に追いつくことはなかろう。

9.しかし森羅万象には光と夜という名称が与えられているので
そしてその力に応じて事物にはあれやこれやの名称が与えられているので、
森羅万象は共に光と朧なる夜に満たされており、
そして同時に光と夜とで満たされている、すべてはすべてを共有するからである。

10.汝はアイテルの本性と、アイテルの中にあるしるしのすべてを知るであろう。
そして輝く太陽の清らかなる松明のような輝きの破壊的な偉業と、その輝きがどこから来たのかも知るであろう。
そして汝は丸顔の月のさ迷い歩く行為と、月の本性も知るであろう。
そして汝はまた周囲を取り囲む天、天が何から長じたのか、どのようにして必然性が天を星々の限界を保つように導いては固定したのか、なども知るであろう。

11.…どのようにして大地と太陽と月
そしてあらゆるものに共通であるアイテルと天の川と
最も遠いところにあるオリュンポスと星々の熱い力とが
押し寄せては生じたのか。

12.というのも、より狭い渦巻が混じりけの無い炎で満たされ、
その隣にあるものは夜で満たされ、しかし相当量の炎がその中に差し込まれ、
そしてこれらのものの中央には万物を支配する女神がいる。
というのも、彼女こそが憎むべき誕生と万物の結合を統治し、
女を送りやっては男と結び付け、そして正反対の流儀で
男を送りやっては女と結び付けもする。

13.あらゆる神々の中でまず彼女は愛を見事にも作り上げた。

14.夜に輝く異質な光は大地を経巡る。

15.常に太陽の光のほうを見る。

16.というのも、それぞれの機会に大いにさ迷える四肢の混合があるのと同様に、
知性もまた人間に対してあるのであるから。というのも、
同じものが、四肢の本性が人間において考えるものだからである、
あらゆるものの中で、そして各々の中で。
というのも、より多くのものが思惟なのだから。
(訳注;この箇所は『ソクラテス以前の哲学者』(廣川洋一著)とWikisourceにある英訳を参照にしてなおチンプンカンプンです)

17.男は子宮の右側で妊娠されるということが他の古代人によって言われている。というのもパルメニデスは「女神は男子を子宮の右側に連れていき、女子は左側に連れていく」と言うのだから。

18.女と男が血管から生じる愛の種子を混ぜ合わせるとすぐに、
ある形成力は、もしこの力が均衡を保っているならば、
巧みにつくられた体を男女の二つの異なる血液から作り上げる。
というのも、種子が混ぜ合わされる時に、もしそれらの力が衝突して
混合の結果として生じる体の中で一つの力を生み出さないならば、
二重の種子で、それらは子供の生じつつある性をおそろしく損なうであろう。

19.このようにして、思惑に従って、これらのものが長じて
いまや、そして長じた後にも、終りへと至るであろう。
そしてそれらに基づいて、人間はそれぞれのものに印をつけるために名前を作り上げたのである。

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