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金を思う存分に使いたいから、働いている
なぜかわからないが、
「素敵な旦那さんがいるのだし、養ってもらったらいいですよ」と言われることが多々ある。
うつ病から復職する際に、怯え切っていたら上司から、「ちゃんとした旦那さんがいるんだし、気負わず慣らしながら働いたらいいと思うよ」と言われた。
私はわりとフェミニストではあるが、この発言に対し「女性蔑視だ!」とは思わず、まあそうなのかな? くらいに受け止めた。
転職先に、できたてのベンチャー企業を選ぼうとしていたとき、同僚(男)に相談した際にも「まよっこさんは、旦那さんが優秀だから、お金は気にせず好きなところで働いたらよいのではないでしょうか」と言われた。
知人からは「無理して働かず、旦那さんに養ってもらったらいいんじゃない?」と軽く言われたこともある。
だからなんだ、という話だが、「養ってもらう」という感覚がぜんぜんピンとこないので、そう言われても「よし、そうしよう」とあまり思えない。
母親が専業主婦だったので、子どもの頃から呪いのように
「いい? あんたにとってお父さんは血が繋がっているけれど、
お母さんにとっては他人なんだよ。仕事をしていれば、いつでも離婚できるけど、結婚して辞めたり仕事してなかったら、離婚したくてもできないんだよ」
と言われ続けてきた。
だけど私はそこまで頭が良くなかったことと、興味のある分野がかなり狭かったこともあり、医者や弁護士、会計士のようないわゆる「士業」は選ばず、編集者の道を選んだ。
ざっくりではあるが、この職業選択は間違っていなかったように思う。
ベストセラー編集者でもなければ、マンガの編集者でもないし、名前でやっていけるほど優れた編集者にはなれなかったけれど、会社員として収入を得るレベルの編集者にはぎりぎりなれた。
うつ病から復職し、慣らし期間中に思ったのは、
「文章を読んで直して、それがお金になるってすごいことだな」
ということだった。
私は本を読むことは好きだし、少なくとも苦痛ではない。
軽いビジネス書くらいなら1〜2時間もあれば読むことができるし、
仕事をしていようがしていまいが、本を読む生活はしている。
いつもやっていることでお金をもらえるなんて、
超ラッキーじゃない?
と自分の仕事を捉え直した瞬間があった。
もちろん、ただ読むだけでなく、そこから付加価値をつけられるように
工夫したりアイデアを出さなければいけないけれど、
今だってdマガジンの雑誌は、ほぼ全ジャンルに目を通しているくらい、
雑誌が好きだから、新聞はあんまり読まないけれど、
文字を読むこと、書くこと、それらをする際に考えることは嫌いではない。
頭を使う仕事をしている私にとって、うつ病という「脳」の病気は、
商売道具に傷がついた、という感覚と同じである。
もうこれまで通り仕事はできないかもしれない。
そう思っていた。
けれど、なぜか、うつ病後のほうが仕事を”乗りこなせている”気がする。
不思議だが、自分のキャパを理解しているので、
「今ここでできないことは、ぜんぶ手放し、やめよう」
と線引きができるようになった。
おかげで、1つ1つのタスクに対する「絶対にやらなければいけないこと」を見抜く力が身についてのだと思う。
後輩からも「どうしてそんなに原稿を読むのが早いんですか?」とか、
「まよっこさんは、限られた時間で仕事をしっかり終わらせていますが、
どうやっているんですか」と聞かれる。
原稿が早く読めるのは、「こういう原稿だったらいいな」というイメージを先にして読んでいるからだし、仕事に関しては「目指すべきゴールはここ」という最終形態を想像して、そことズレた部分から対処しているからである。
うつ病以前は、「全部、完璧にしっかり見なければ」と頭から緻密に見ようとしていたので、ものすごく時間がかかっていた。
緻密に見ようとしたって、どうせ間違える。
それなのに「間違える自分」を計算に入れずに作業していたように思う。
これは、受験勉強の過去問の解き方に似ているかもしれない。
私は大学受験をせず、エスカレーター式で進学したので
「受験勉強をしていないバカ」と自分のことを思っており、
ものすごくコンプレックスだった。
うつ病の療養期間中にせっかくだし、とリハビリがてら本屋で歴史の教科書と赤本を買ってきて、大学受験用の勉強をしていた。
しかも、毎日8時間(もはや勤務時間とと同じ・・・)ぶっ通しで。
2ヶ月くらい続けたと思う。
その際に、勉強する前に「勉強の仕方」を勉強してから始めた。
「1冊の参考書を間違えなくなるまで何度もとく」
「7周教科書を読むと覚えられる」
など、受験生には当たり前のセオリーに沿って「わからない箇所も気にせず、どんどん読む」というのを続けた。
もちろん、受験生に比べたら知識量は劣るけれど、ずっとつまずいていた
「15〜18世紀のヨーロッパ各国の絡み合い」
「キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の違いと宗教戦争」などの項目を
ちょっとづつ克服していった。
学生時代にはまったく面白くなかったが、大人になって読むと面白さもわかる。
きっと、頭のいい人というのは、10代の頃に、30代半ばの大人がやっと理解することを身につけて血肉とできているから頭がいいと言われるのだな、ということにも気がついた。
「養われる」という立場は、もろくて危うい。養っている人間が倒れるかもしれないし、それこそ「他人」なので縁が切れたら養ってもらえなくなる。
だが、逆に私のような「頭」を使う仕事も、あまり変わらない気がする。
今回は回復したからよいけれど、正常に思考できなくなることだってあるわけだから、「思考」という目に見えない、あるのかないのかわからないスキルに頼って生きている今も十分、もろい。
生きていることすら奇跡の集大成ではあるが、どの選択肢も危ういのは変わらない気がする。
ただ単純に、私は自分で稼いだお金で買い物をしたいというだけで働いているのだ。そして、私の金遣いの荒さをカバーできるほど稼げる男性もそうそういないと思う。
「金を使うために働いている」
だから、ただそれだけなのだ。