【マカロニえんぴつ】という概念に恋焦がれる(4日目)
VIOの脱毛中、みなさんは何をお考えになられているでしょうか?
私は、マカロニえんぴつのことを考えています。
また、仕事でとんでもなく面倒くさい展開に巻き込まれた時も、マカロニえんぴつに思いを馳せて、このどうしようもない苦痛を凌いでいます。
「いや〜、僕(私)が数十年と仕事してきて、遭遇したことがない災難だね、そりゃあ」
とトラブルの顛末を聞いた人がみんな同情してくれるのだから、よっぽどの出来事である。
海千山千の編集者たちが、出会ったことのないほど、ミラクルにやばいことが短期間に立て続けに起き、精神的苦痛を和らげるため、私の脳が【マカロニえんぴつ】という何かへ無意識にアクセスしている。
クラウド上にあるGoogleドライブのような、果てしなく広がる空間に突如として現れた【マカロニえんぴつ】というフォルダっぽいもの。
(マカロニえんぴつ、頻出ワードなので、たった今、辞書登録しました)
フォルダであれば、何か関連した書類やら写真やらが保存されるが、この場合の【マカロニえんぴつ】というのは、特に入れるものはない。入れ物自体に存在価値がある。使い道のない小さすぎるショルダーバッグのようなものだ。
とあるファショニスタの方が、小さすぎるバッグについて語っていた記事をたまたま読んだ。
入れるものがないのに、バッグ。
バッグなのに、荷物を入れて運搬するという機能を果たさない。
袋状の姿形をして、ハンドルが付いているゆえにバッグのジャンルに分類されているだけのバッグ。
もしかすると、デザインした人はポケットに財布とスマホと鍵を突っ込んで、バッグを持たないくらいのミニマリストだったのか。
いや、観賞用としての「バッグ」というオブジェだったのかもしれない。
もしくは、このバッグは本来、借り暮らしのアリエッティを持ち歩くための、
キャリーケースとして作られた可能性も否定できない。
このバッグは、一体何者なのだろうか。
この問いに近い。
私にとっての「マカロニえんぴつ」は、「マカロニえんぴつ」、という概念なのである。
概念に対して「好き」とは意味がわからない。
ついに、私は頭がおかしくなったのではないか。自問する日々。
夫に対してもこんな感情は抱いたことがない。
これは、私の人生において、一大事である。
少し整理しよう。呼吸と心もついでに整えよう。すーはーすーはー。(いや、吐かないと吸えないから、はーすー、はーすー、だ)
はっとりさんという才能にときめいてるのは、間違いない。
はっとりさんの声が本当に好きなのだが、曲も歌詞も大好きである。
そのため、音楽を聴くだけでは飽き足らず、産後初の地方遠征も解禁してしまった。子供を夫に預け、1回のツアーで何公演もチケットを取り、外れてもリセールで敗者復活するくじ運の強さ。
グッズは通販で購入していることをすっかり忘れ、会場でも購入しているあたりは、老いを感じる。
私は1人しかいないが、ツアーTシャツやパーカーが占拠。家賃の1/100くらいは場所を取っているだろう。
80歳まで生きるとして、おそらく40代になる頃には使い切れるレベルではあるが、「お土産」と称して罪悪感を軽減するため、夫と子どもも巻き添えにしてグッズを分配している。
(しつこいが、B1A4は使っていないサイン入りのファンクラブ限定の未使用歯ブラシグッズや、ライブで投げたジニョン氏の汗がしみているタオルの一部は、いまだに使わずに保管されている)
※注釈:なぜ、一部かと言うとマフラータオルのメリットでありデメリットが露見してしまったのだ。長いので飛んできたタオルをみんなで綱引きみたいに引っ張りあうことに! その場でタオルに手をかけた人々計6名が、お互い傷つけあうのは得策ではない、といってハサミでちょきちょき等分するという、平和的解決をしたからである。
グッズ購入に関しては、悩みがある。
先日行われた初野音でも、ツアーTシャツを着てその上にツアーパーカーを着てレインコート持参で参戦したはずが、気づけばグッズ売り場に並んでいた。
開演前にロンTやポンチョを買い、雨なのに荷物が増えて「あーあ、なにやってんだか」と反省したはずが、公演後、帰り道に「あ、誰も並んでない、ラッキー」とグッズ売り場に立ち寄り、マカピーのぬいぐるみをゲットして帰路についた。
なんでもコンプリートしなければ気が済まない自分の性質が恨めしい。
要するに、買いすぎる。
ライブ帰り、1人参戦なので友人に感想を送りつけているのだが、興奮しながらグッズを写メって送信したところ、
「グッズすら超まよっこ好きそうなデザインじゃん」
と言われた。そう、好みすぎるのだ。
ライブに行く前も、帰り道もずっとマカロニえんぴつを聴いてる。
友だちと行くカラオケではもちろん本人映像で歌う。
・・・が、それでは足りず、ついには踏み入れたことのなかった一人カラオケデビュー。
人生における戦闘力が、確実にアップした。
ヒトカラのバージンは、マカロニえんぴつに奪われ、好みのセットリストで狂ったように2時間歌う始末。
それでも飽き足らず、最近はギターを買おうと検討し始めている。
歌が下手なので、ボイトレに通うというオプションも、誰にも勧められてないが自主的に追加しようと思う。
「お前は一体、何を目指してるのか」
というマトモなもう1人の私の声には構わず、はっとり完コピへの道を突き進もうとしている。
「マカロニえんぴつ」と頭の中で念仏のように唱えること、それ自体が楽しい。
「なぜ、こんな素晴らしい才能がこの世に存在するのだろうか」
ため息まじりに、1曲聞くごとに1人ゴチる。
聴けば聴くほど、いや、聴いても聴いても、飽きない。
むしろ、どんどん好きになる。
私にとって概念である「マカロニえんぴつ」という、脳内クラウドに浮かぶフォルダっぽい何か。
夫の書棚に箱入りで鎮座している『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という超絶難解な哲学書が目についた。(お値段5800円という強気の価格)
この本の帯にヒントがあるかもしれない。
と、書いてある。
私は目を疑った。もう一度、見てほしい。
え?
普通は「何を書いたかわからない本」は、駄本とされる。
しかし、こちらの書物は、考えることを、悩むことを前提にした読み物だと胸を張っているではないか!!!
つまり、「答えが出たり」「何を書いているかわかったり」してはいけないわけだ。哲学書だからそうだよね。うん。
ということは、私がマカロニえんぴつという概念について舐めたり、眺めたり、掴んだり、横から見たり、上から見たりしているのは、哲学の領域ということではないか。
今日はここまでにしよう。
とにかく、「マカロニえんぴつという概念についてー自我の認識とそれ以外を隔てるもの」(仮題)は、明日以降書くことにする。